議院内閣制
【概説】
議会(国会)で多数派を占めた政党が内閣を組織し、内閣が議会の信任に基づいて存続するイギリス型の政治体制。明治初期の自由民権運動期からその導入が議論され、大日本帝国憲法下での「憲政の常道」を経て、戦後の日本国憲法において法的に確立された。
明治十四年の政変とイギリス型立憲制の挫折
明治初期、自由民権運動の高まりとともに憲法制定や国会開設の議論が本格化した。参議であった大隈重信は、1881年(明治14年)に提出した意見書において、早期の国会開設とともに、イギリスを模範とした議院内閣制(政党内閣制)の即時導入を強く主張した。これに対し、君主(天皇)に強い権力を残すプロイセン(ドイツ)型の立憲制を目指していた伊藤博文らは、大隈の急進的な主張を警戒した。その結果、伊藤らは大隈を政府から追放し(明治十四年の政変)、官有物払い下げ事件の批判をかわすために「10年後の国会開設の公約」を発表した。下野した大隈は立憲改進党を結成し、在野から議院内閣制の実現を訴え続けることとなった。
大日本帝国憲法下の「超然主義」と政党内閣への道
1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法は、天皇に統治権を総攬させ、各大臣は天皇に対してのみ責任を負うものとした(内閣は議会に責任を負わない)。これにより、初期の藩閥政府は議会の多数派を無視して内閣を組織する超然主義をとった。しかし、予算や法案の成立には衆議院の協賛が必要であったため、藩閥政府は次第に政党との妥協を余儀なくされ、1900年には伊藤博文みずからが立憲政友会を結成するに至った。やがて大正デモクラシー期に入ると、1918年の原敬内閣の誕生を経て、1924年(加藤高明内閣)から1932年(犬養毅内閣の五・一五事件まで)の期間、衆議院の多数派が交代で組閣する「憲政の常道」が確立され、帝国憲法の枠内において事実上の議院内閣制が機能した。
日本国憲法における議院内閣制の確立
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法のもとで、議院内閣制は日本の政治制度として初めて明文化された。国民主権の原則に基づき、国会が「国権の最高機関」と位置づけられ、内閣総理大臣は国会議員の中から指名されることが定められた。また、内閣は行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負うこと(憲法第66条第3項)、衆議院で内閣不信任決議案が可決された場合は10日以内に衆議院を解散するか総辞職しなければならないこと(第69条)が規定され、名実ともに議院内閣制が日本の民主政治の根幹として定着した。