咸宜園 (かんぎえん)
【概説】
江戸時代後期に儒学者・広瀬淡窓が大分の日田に創設した、日本最大規模の私塾。門人の身分や年齢、学歴を一切問わない教育方針を掲げ、徹底した実力主義による段階的評価を用いて、全国から集まった数千人の多様な人材を育成した教育機関。
「三奪」の理念と階級社会への挑戦
咸宜園は、豊後国日田(現在の大分県日田市)の儒学者である広瀬淡窓によって、1817(文化14)年に開かれた。「咸宜」とは『詩経』の一節から取られた言葉で、「みなよろしい」という意味を持つ。この名の通り、淡窓はすべての人間にはそれぞれの素質や価値があるという思想に基づき、教育を実践した。
その最大の特徴が、入門に際して「身分(家柄)」「年齢」「学歴」の3つを問わない、いわゆる「三奪(さんだつ)」の教育方針である。士農工商の身分制度が厳然として存在した江戸時代において、武士、僧侶、医師、町人、農民が全く対等な立場で同じ机を並べて学ぶ環境を提供したことは、極めて革新的な試みであった。
実力主義を徹底させた「奪級法」と自主性の教育
咸宜園では、形骸化した身分の代わりに、学力に基づいた厳格な成果主義が導入された。それが「奪級法(だっきゅうほう)」と呼ばれる評価システムである。塾生は毎月の試験(月旦評)によって評価され、成績が良ければ進級し、怠れば容赦なく降級(級を奪われる)させられた。
この客観的かつ競争的な評価制度は、全国から集まった塾生たちの学習意欲を大いに刺激した。同時に、塾内の日常生活や運営は、塾生たち自身による自治組織(職制)に委ねられており、共同生活を通じて実務的な社会性や規律を養う仕組みも確立されていた。
天領「日田」が育んだ人材と近代への影響
咸宜園が置かれた日田は、江戸幕府の西国筋郡代が置かれた天領(直轄領)であり、九州における政治・経済・交通の要衝であった。こうした地理的背景も手伝い、評判を聞きつけた若者が日本全国から集まり、閉塾までに数千人を超える門下生を輩出することとなった。
主な門下生には、後に長州藩の近代軍制を創設する大村益次郎(村田蔵六)をはじめ、幕末の先駆的洋学者である高野長英、日本最初期の写真家となった上野彦馬、さらに明治期に内閣総理大臣を務めることになる清浦奎吾などが名を連ねている。身分にとらわれず個人の実力を伸ばす咸宜園の教育システムは、やがて訪れる明治の近代教育制度の地平を切り拓く先駆的な役割を果たしたといえる。