曲亭馬琴(滝沢馬琴) (きょくていばきん / たきざわばきん)
【概説】
江戸時代後期を代表する戯作者であり、勧善懲悪を基調とした「読本」の第一人者。晩年に失明しながらも、息子の妻による口述筆記によって28年の歳月をかけ超長編『南総里見八犬伝』を完結させた。中国小説の翻案と深い儒教的教養を融合させ、化政文化における大衆文学の頂点を極めた。
武士からの転身と戯作者への道
曲亭馬琴(本名:滝沢興邦)は、江戸の旗本・松平家の用人をつとめる武士の家に生まれた。しかし、父の死後に家督を継ぐも周囲との折り合いが悪く、主家を出奔して放浪の青春時代を送ることになる。その後、医者や儒学の道を志すも挫折し、最終的に当時第一線の戯作者であった山東京伝の門を叩き、文学の世界へと足を踏み入れた。
当初は黄表紙などの軽妙な絵入りの娯楽本を執筆していたが、寛政の改革による出版統制の影響もあり、次第により本格的な筋立てと文章を中心とした小説形式へと関心を移していく。履物屋に婿入りして生活の安定を得た馬琴は、豊富な読書量に裏打ちされた教養を武器に、原稿料のみで生計を立てる職業作家としての自立を果たしていった。
後期読本の大成と「勧善懲悪」の思想
江戸時代後期、上方(京都・大坂)を中心に発展した上田秋成らの「前期読本」に対し、江戸で独自の発達を遂げたのが「後期読本」である。馬琴はこの分野で圧倒的な地位を確立した。彼の作品群の最大の特徴は、強烈な勧善懲悪および因果応報の思想である。これは馬琴自身の深い儒教的教養(朱子学)に基づくものであり、単なる娯楽小説の枠を超え、読者に倫理的な教訓を与えることを目的としていた。
また、馬琴は『水滸伝』や『三国志演義』といった中国の白話小説(口語体小説)を深く研究し、その雄大なスケールや複雑な構成手法を日本文学に取り入れた。源為朝の数奇な運命を描いた『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などのヒット作を次々と世に送り出し、葛飾北斎らの躍動感ある挿絵と相まって、貸本屋を通じ広く江戸の民衆に愛読された。
未曾有の超長編『南総里見八犬伝』と執念の完結
馬琴の生涯の集大成と言えるのが、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)にかけて刊行された全98巻106冊に及ぶ超大作『南総里見八犬伝』である。室町時代の安房里見氏の歴史を背景に、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字が記された霊玉を持つ八人の犬士が活躍するこの物語は、化政文化期から天保期にかけて空前のベストセラーとなった。
しかし、執筆の途上で馬琴は眼病を患い、ついに両目の視力を完全に失うという絶体絶命の危機に陥る。それでも創作への執念を燃やし続けた彼は、息子の妻であるお路に口述筆記をさせることで執筆を継続した。漢字すら満足に知らなかったお路に対し、文字の偏と旁(つくり)を教え込みながら物語を紡ぎ出すという壮絶な苦闘の末、執筆開始から28年目にしてついに完結に漕ぎ着けたのである。
日本文学史における馬琴の意義
馬琴の登場により、日本の近世小説は構成力・思想性においてひとつの頂点を極めた。彼が確立した緻密なプロットや巧みな伏線回収の技法は、単なる通俗小説の枠を超え、後の大衆文学に多大な影響を与えた。
明治時代に入ると、近代文学の祖である坪内逍遥がその著『小説神髄』の中で、馬琴の「勧善懲悪」を「登場人物が道徳理念の操り人形になっている」として厳しく批判し、近代的な写実主義への転換を訴えた。しかし、この批判は裏を返せば、馬琴の作品が乗り越えるべき「旧時代の文学の最高峰」として近代の知識人に絶大な影響力を持っていたことの証左にほかならない。馬琴の築き上げた壮大な物語世界は、現代に至るまで演劇や映像作品など多くの翻案を生み出し続けている。