葛飾北斎
【概説】
江戸時代後期(化政文化期)に活躍した浮世絵師。西洋画法を含む多様な表現技法を吸収し、新顔料「ベロ藍」を活用した『富嶽三十六景』によって名所絵(風景画)のジャンルを確立した。その革新的な構図と描写は海を渡り、西洋の印象派芸術などに多大な影響を与えた。
飽くなき探求心と初期の画業
葛飾北斎は宝暦10(1760)年、江戸の本所に生まれた。19歳で浮世絵師の勝川春章に入門して「春朗」を名乗り、役者絵などを描いて画業をスタートさせた。しかし、勝川派の枠に収まることなく、狩野派、土佐派、琳派、さらには中国絵画や遠近法・陰影法といった西洋画法まで、貪欲に多様な流派の技法を学んだ。
北斎は生涯で30回以上の改名を繰り返し、「宗理」「北斎」「戴斗」「画狂老人卍」など名を変えながら、常に新しい画風を模索し続けた。寛政期から文化期にかけては、狂歌本や絵暦の挿絵を手がけたほか、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』などの挿絵を担当し、その躍動感あふれる描写で江戸の出版界において確固たる地位を築いた。
『北斎漫画』と絵手本の普及
文化11(1814)年、北斎が50代半ばのときに初編が刊行されたのが『北斎漫画』である。これは門人たちのための絵手本(デッサンの教本)として描かれたものであったが、人物の豊かな表情や滑稽なポーズ、動植物、風景、妖怪に至るまで、森羅万象を卓越した筆致で捉えた内容は、瞬く間に広く大衆の心を掴んだ。
『北斎漫画』は北斎の死後も刊行が続けられ、全15編の大ベストセラーとなった。同作にみられる一瞬の動きを切り取るような描写力は、北斎の観察眼の鋭さを示すとともに、後の風景画における大胆な構図の基礎を形作っていくこととなる。
『富嶽三十六景』と名所絵の確立
北斎の画業の集大成ともいえるのが、彼が70歳を過ぎてから発表した『富嶽三十六景』である。天保2(1831)年頃から刊行が開始されたこの揃物は、当時オランダから輸入され普及し始めていた合成顔料「ベロ藍(プルシアンブルー)」を空や水面に効果的に用いることで、鮮やかで深みのある色彩表現を実現した。
とくに「神奈川沖浪裏」の大胆な波の表現や、「凱風快晴(赤富士)」の研ぎ澄まされた構図は圧巻であり、浮世絵において役者絵や美人画が主流であった当時にあって、名所絵(風景画)という新たなジャンルを完全に確立した。北斎の成功は、後の歌川広重による『東海道五十三次』などの風景画ブームを力強く牽引した。
世界美術史におけるジャポニスムと歴史的意義
葛飾北斎の功績は、日本国内にとどまらない。幕末の開港以降、日本の陶磁器などが輸出される際、緩衝材や包み紙として使われていた反故紙のなかに『北斎漫画』などが混ざっており、これが19世紀後半のヨーロッパの芸術家たちに発見された。
北斎の非対称で大胆な構図や、鮮烈な色彩、平面的な描写は、当時の西洋美術の伝統的な遠近法や写実主義に行き詰まりを感じていたモネやドガ、ゴッホといった印象派・ポスト印象派の画家たちに衝撃を与え、ジャポニスム(日本趣味)と呼ばれる一大芸術運動を巻き起こす原動力となった。一介の浮世絵師から出発し、世界の美術史にその名を刻んだ北斎は、化政文化の成熟を象徴するとともに、日本文化の対外的な影響力を語る上で最も重要な人物の一人である。