浦賀 (うらが)
【概説】
相模国三浦半島に位置する、江戸湾(東京湾)の入り口の港町。江戸時代中期以降は浦賀奉行所が置かれて江戸へ向かう船舶の検問が行われ、「海の関所」として機能した。幕末期にはペリー艦隊をはじめとする異国船が来航し、日本の開国と近代化の契機となった歴史的に重要な地である。
江戸湾の玄関口と浦賀奉行所の設置
浦賀は相模国三浦半島の東南部に位置し、江戸湾(現在の東京湾)の入り口という地理的要衝にある。古くから風待ちや避難港として利用されてきたが、その重要性が飛躍的に高まったのは江戸時代のことである。江戸幕府の成立以降、江戸の人口が急増すると、上方(関西)などから大量の物資が海上輸送によって運ばれるようになった。幕府は当初、伊豆国に下田奉行を置いて江戸へ向かう船舶の検問を行っていたが、1720年(享保5年)、江戸湾防備と海運統制の強化を目的として、奉行所を下田から浦賀へと移転させた。これに伴い、浦賀は「海の関所」としての役割を担うこととなった。
海上交通の要衝としての繁栄
浦賀奉行所の設置により、江戸へ入るすべての商船は浦賀での「船改め(積荷や乗組員の検査)」が義務付けられた。これにより、浦賀には廻船問屋や船宿などが立ち並び、港町として大いに繁栄した。上方から運ばれる木綿や醤油、酒などの日用品に加え、房総半島などから集まる干鰯(ほしか)等の肥料の集散地としても重要な機能を果たした。多数の船舶が停泊し、人々が往来する浦賀は、江戸の経済と消費生活を根底で支える大動脈の結節点であった。
異国船の接近と海防の最前線
18世紀後半以降、日本近海に欧米の異国船が頻繁に出没するようになると、江戸湾の入り口にある浦賀は、首都江戸を防衛するための海防の最前線として位置づけられるようになった。1837年(天保8年)には、日本人漂流民の送還と通商を求めて来航したアメリカの商船モリソン号に対し、浦賀奉行所が異国船打払令に基づき砲撃を加えるモリソン号事件が発生した。また、1846年(弘化3年)にはアメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀沖に来航し、通商を要求したが幕府はこれを拒絶している。これらの事件は、浦賀が鎖国体制下において外国の圧力を直接受ける地となっていたことを如実に示している。
ペリー来航と幕末の動乱
浦賀の名を歴史に深く刻んだ最大の出来事が、1853年(嘉永6年)のアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーによる来航である。4隻の黒船(蒸気船)を率いて浦賀沖に姿を現したペリー艦隊は、武力を背景に開国を迫り、日本中に大きな衝撃を与えた。幕府は浦賀奉行を通じて対応にあたり、近隣の久里浜でアメリカ大統領の国書を受理した。翌年、ペリーは再び江戸湾に進入し、日米和親条約が締結される。浦賀へのペリー来航は、200年以上にわたる日本の鎖国政策を終焉させ、幕末の動乱期へと突入する決定的な契機となった。
近代造船業の幕開け
開国後、外国との貿易港には浦賀ではなく横浜が選ばれたため、浦賀は国際貿易港としての道を歩むことはなかった。しかし、海防の危機感から幕府は1853年に浦賀奉行所内に造船所を設け、日本初の本格的な洋式軍艦である「鳳凰丸」を建造した。また、1860年に勝海舟らを乗せて太平洋を横断した咸臨丸も、出航前に浦賀で整備が行われている。このように、浦賀は幕末期において西洋の近代的な造船・航海技術を吸収する重要な拠点となり、明治維新後も近代日本を支える造船の町として新たな歴史を歩んでいった。