日米修好通商条約
【概説】
1858年(安政5年)、江戸幕府の大老井伊直弼が孝明天皇の勅許を得ずにアメリカ総領事ハリスとの間で調印した、自由貿易の開始と不平等条項を含む条約。この条約によって日本の約200年にわたる鎖国(海禁政策)は実質的に終焉を迎え、世界市場へと組み込まれることとなった。しかし、その不平等な内容と無勅許での調印は国内に深刻な政治的・経済的混乱をもたらし、結果として幕末の尊王攘夷運動や倒幕運動を激化させる最大の要因となった。
通商要求と国際情勢の圧力
1854年の日米和親条約により「開国」を果たした日本であったが、これはあくまで漂流民の保護や薪水給与を目的としたものであり、本格的な貿易を認めるものではなかった。しかし、1856年に下田に着任したアメリカの初代駐日総領事タウンゼント・ハリスは、幕府に対して強硬に通商条約の締結を迫った。
当時、東アジアではイギリスとフランスが清国に対してアロー戦争(第二次アヘン戦争)を引き起こしており、圧倒的な軍事力で清国を屈服させていた。ハリスはこの国際情勢を巧みに利用し、「英仏の艦隊が日本に押し寄せる前に、平和的にアメリカと条約を結ぶべきだ」と幕府に説いた。老中首座の堀田正睦ら幕府首脳は、圧倒的な武力差を前に開国・通商は不可避であると判断し、条約締結に向けた交渉を開始した。
無勅許調印と安政の五カ国条約
幕府は未曾有の国難に対し、朝廷の権威を借りて国内の意思統一を図るため、孝明天皇から条約締結の勅許(天皇の許可)を得ようとした。しかし、極端な攘夷論者であった孝明天皇はこれを断固として拒否した。朝廷と幕府の板挟みになる中、1858年に大老に就任した井伊直弼は、ハリスの強い働きかけと英仏艦隊来航の危機感から、やむを得ず勅許を得ないまま日米修好通商条約の調印に踏み切った(無勅許調印)。
この条約を皮切りに、幕府は同年中にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結んだ。これらは総称して安政の五カ国条約と呼ばれる。
条約の不平等性と開港
日米修好通商条約は、日本の主権を著しく侵害する典型的な不平等条約であった。その中核となる不平等条項は以下の三点である。
第一に、領事裁判権(治外法権)の承認である。日本で罪を犯した外国人を日本の法律で裁くことができず、各国の領事が本国の法律に基づいて裁判を行う権利を認めた。第二に、関税自主権の欠如(協定関税制)である。輸入品にかける関税率を日本が自主的に決めることができず、外国との協定によって低く抑えられた。第三に、日米和親条約から引き継がれた片務的最恵国待遇である。
また、この条約により、既存の下田・箱館に加え、神奈川(のちに横浜へ変更)、長崎、新潟、兵庫の開港と、江戸・大坂の開市が定められた。これにより、外国商人が居留地に滞在し、日本の商人と直接取引を行う自由貿易の体制が確立した。
経済的混乱と激動する幕末政局
1859年に横浜などで貿易が開始されると、日本経済は深刻な打撃を受けた。生糸や茶などの輸出が急増したことで国内の物資が不足し、急激なインフレーション(物価高騰)が発生した。さらに、日本と外国とで金銀の交換比率(金銀比価)が異なっていたため、外国商人が大量の銀貨を持ち込んで日本の金貨と交換し、日本の金が海外へ大量に流出する事態となった。幕府は金の含有量を大幅に減らした万延小判を発行して流出を食い止めたが、これが更なる物価高騰を招き、人々の生活を直撃した。
経済の混乱に加え、天皇の意志を無視した「無勅許調印」は、全国の武士や知識人の激しい憤りを引き起こした。尊王攘夷運動が瞬く間に全国へ広がり、井伊直弼は安政の大獄と呼ばれる弾圧で対抗したが、1860年の桜田門外の変で暗殺された。日米修好通商条約は、幕府の権威を失墜させ、倒幕へと向かう歴史のうねりを生み出したのである。そして、この時結ばれた不平等条約の改正は、その後の明治政府にとって半世紀近くにわたる最大の国家的悲願となるのであった。