俗論党 (ぞくろんとう)
【概説】
幕末の長州藩における保守派の政治勢力。1864年の第1次長州征討の際、幕府への絶対恭順を唱えて藩政の実権を握り、それまでの藩政を主導した尊王攘夷派(正義派)を徹底的に弾圧した。
禁門の変と俗論党政権の誕生
1864(元治元)年7月、長州藩の急進的な尊王攘夷派は京都で禁門の変(蛤御門の変)を引き起こしたが、会津藩や薩摩藩などの兵に敗北した。これにより長州藩は「朝敵(朝廷の敵)」となり、江戸幕府による第1次長州征討を招くこととなった。大軍を擁する幕府軍が国境に迫るなか、藩内ではこれ以上の抗戦は不可能であるとする保守派が台頭した。この保守派勢力が「俗論党」である(これに対し、周布政之助や高杉晋作、桂小五郎らの革新派・尊王攘夷派は「正義派」と呼ばれる)。
俗論党の指導者である椋梨藤太(むくなしとうた)らは、藩主・毛利敬親の信任を得て藩政の実権を掌握すると、幕府の要求を全面的に受け入れる方針をとった。彼らは禁門の変の責任を問い、国司信濃・益田右衛門介・福原越後の三家老を切腹させ、さらに四参謀を斬首に処した。これにより、一度は幕府軍の解兵と長州藩の取り潰し回避に成功した。
徹底的な「正義派」粛清と藩内の動揺
政権を確固たるものにした俗論党は、藩内の「正義派」に対する徹底的な粛清を開始した。藩校である明倫館などの教育・言論機関を統制し、改革派の藩士を次々と投獄・処刑した。この弾圧は過酷を極め、正義派の指導者であった周布政之助は自殺に追い込まれ、桂小五郎は潜伏を余儀なくされた。俗論党の目的は、幕府の権威に平伏することで毛利家と藩の存続を図ることにあったが、このあまりにも卑屈な恭順姿勢と過激な身内への弾圧は、領内の諸隊や領民の強い反発を招くこととなった。
功山寺挙兵と俗論党の失脚
この危機に際し、福岡へ亡命していた高杉晋作が下関へ戻り、1864年12月に下関の功山寺で挙兵(功山寺挙兵)した。高杉は俗論党を「君側の奸(主君を惑わす悪臣)」と位置づけ、奇兵隊をはじめとする諸隊を率いて俗論党の藩政府軍に立ち向かった。
翌1865年初頭の絵堂・大田の戦いにおいて、農民や町人などの平民を徴募した諸隊の機動力と近代的な軍事力が、旧来の兵制に基づいた俗論党の藩政府軍を圧倒した。この勝利によって領内の世論は一変し、中立を保っていた中堅藩士らも高杉らに味方したため、俗論党政権は完全に崩壊した。指導者の椋梨藤太らは捕らえられて処刑され、長州藩は再び「正義派」が主導する倒幕・割拠の路線へと大きく舵を切ることとなった。