最上徳内 (もがみとくない)
【概説】
江戸時代後期に活躍した最上地方出身の探検家・地理学者。老中・田沼意次の命による蝦夷地・千島列島調査に同行し、国後島や択捉島などを踏破して北方の地理やロシアの動向を調査した人物。その先駆的な調査活動は、のちの江戸幕府の北方防備・対外政策に決定的な影響を与えた。
幕府の北方関心と徳内の抜擢
18世紀後半、帝政ロシアの探検家や商人が毛皮を求めて千島列島を南下し、蝦夷地(現在の北海道や千島列島、樺太など)近海に現れるようになった。この「赤夷(ロシア)」の南下に対し、江戸幕府の老中・田沼意次は、蝦夷地の直轄地化やロシアとの交易を視野に入れた北方開発を計画した。
出羽国(山形県)の貧しい農家に生まれた最上徳内は、江戸に出て経世論家・本多利明に師事し、数学や測量術、天文学を学んだ。その優れた才能を見出され、1785(天明5)年、幕府が派遣した第一次蝦夷地検分隊に随行者(普請役下役格)として抜擢されることとなった。これが、徳内による北方探検の始まりである。
千島探検とロシア動向の把握
徳内はアイヌの人々の協力を得て、国後島から択捉島、さらには得撫島(ウルップ島)へと渡り、実地調査を敢行した。当時、これらの地域は和人にとって未知の領域であったが、徳内は現地に滞在していたロシア人たちと直接接触し、彼らの活動実態や交易の状況を詳細に調査した。翌1786年にも再び調査を行い、蝦夷地の詳細な地図や地理的状況、アイヌの風俗、ロシアの動向に関する極めて精度の高い報告を幕府に持ち帰った。
これらの調査成果は、それまで「化外の地(支配の及ばない地)」とみなされていた蝦夷地や千島列島に対し、日本が明確な国境線を意識し、主権を主張していく上での歴史的な第一歩となった。
田沼失脚後の苦難と後世への足跡
しかし、1786(天明6)年に将軍・徳川家治が死去し、推進者であった田沼意次が失脚すると、状況は一変する。後を襲った松平定信による「寛政の改革」では、緊縮財政と祖法重視が掲げられ、田沼期の蝦夷地開発計画は一転して中止された。徳内もまた、幕府の政争に巻き込まれて一時投獄されるなどの辛酸をなめることとなった。
その後、1792(寛政4)年のラクスマン来航などを機に北方警備が再び焦眉の急となると、北方情勢に精通した徳内は再び幕府に重用された。1798(寛政10)年には、近藤重蔵の蝦夷地調査に同行し、択捉島に「大日本恵登呂府」の木柱を立てるなど、国境画定に大きく貢献した。晩年には、来日したオランダ商館医シーボルトに北方図を提供するなど、日本の北方探検史、および世界的な地理的認識の発展に不滅の足跡を残した。