間宮海峡 (まみやかいきょう)
【概説】
樺太(サハリン)とユーラシア大陸(シベリア)の間を隔てる海峡。江戸時代後期の探検家・間宮林蔵が、隠密行動を伴う決死の探検によって樺太が「島」であることを確認し、のちに世界地図にその名を残した地理学上の重要地である。
北方防備の緊迫と幕府による樺太調査
18世紀末から19世紀初頭にかけて、日本近海にはロシア船が頻繁に現れるようになり、江戸幕府は北方防備の強化に迫られていた。特に1806年から1807年にかけて発生したロシア武装船による蝦夷地襲撃事件(文化露寇)は、幕府に強い衝撃を与えた。このような緊張感の中、幕府は蝦夷地(現在の北海道、樺太、千島列島など)を直轄領(公領)化し、その全容を把握するための本格的な北方探索を開始した。
当時、最大の地理的懸案事項となっていたのが、「樺太(サハリン)が大陸と地続きの半島なのか、それとも海を隔てた島なのか」という疑問であった。もし半島であればロシアの勢力が陸路で直接蝦夷地に及ぶ脅威があり、島であれば海防のあり方も変わってくるため、この謎を解明することは国防上の最優先課題であった。
間宮林蔵の決死の探検と「島」の立証
1808年、幕命を受けた隠密の間宮林蔵は、通詞であり測量家の先輩でもある松田伝十郎とともに樺太へと渡った(第一次探検)。この時、二人は樺太西岸を北上し、樺太が島であるという強い感触を得たが、流氷や食料不足のために最狭部を目前にして引き返さざるを得なかった。
諦めきれない林蔵は、翌1809年に単身で再び樺太へ渡る(第二次探検)。アイヌや現地住民(ギリヤーク/ニヴフなど)の協力を得て、さらに北へと進んだ林蔵は、ついに樺太がユーラシア大陸と地続きではないことを肉眼で確認し、樺太が「島」であることを完全に実証した。さらに林蔵は、現地住民の舟に同乗して海峡を渡り、対岸の黒竜江(アムール川)下流にある清朝の役所(デレン)にまで足を踏み入れ、北方の交易実態や民族情勢に関する貴重な情報を幕府に持ち帰った。
シーボルトによる紹介と世界地図への記載
間宮林蔵が持ち帰った詳細な測量データや北方地図は、のちに伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の北方部分を補完することとなった。さらに、この偉業は日本国内に留まらず、世界へと知れ渡ることになる。
1820年代に長崎の出島に赴任していたドイツ人医師シーボルトは、間宮林蔵本人や最上徳内らと交流を持ち、林蔵の調査資料を入手した(のちのシーボルト事件の契機となる)。シーボルトは帰国後に著した大著『日本』の中で、林蔵の功績を称えてこの海峡を「マミヤノセト(Mamiya Strait / 間宮海峡)」と命名して紹介した。
当時、フランスの探検家ラ・ペルーズやイギリスのブロートンらヨーロッパの優秀な航海士たちも同海峡の調査を試みていたが、浅瀬阻まれて通り抜けることができず、樺太を「半島」と結論づけていた。そのため、アジア人の探検家が世界に先駆けてその謎を解明したことは、世界の地理学史上、極めて高い評価を受けることとなったのである。現在でも国際的には「タタール海峡」と呼ばれることが多いが、間宮海峡の名も世界共通の歴史的呼称として認められている。