信牌 (しんぱい)
【概説】
江戸幕府が特定の外国船に対して交付した長崎への入港および貿易の許可証。元来は清国(清朝)船の来航数制限のために発給されたが、のちにロシア使節のラクスマンに対して長崎への回航を許可する臨時の外交手段として交付されたことで知られる。
清朝船の制限と「正徳新例」における起源
信牌の制度は、もともと江戸中期の1715年(正徳5年)に、新井白石が主導した幕政改革(正徳の治)の一環である「海舶互市新例(正徳新例)」において導入された。当時、長崎貿易における金・銀・銅の海外流出が深刻化していたため、幕府は清国船の来航数と貿易額を厳しく制限する必要に迫られていた。
そこで幕府は、長崎奉行が定数を定めて清国商人に対して交付する一種の貿易割当証兼入港許可証として「信牌(牌)」を発行した。これを持たない清国船は長崎での交易を認められず、密貿易の防止と貿易統制において大きな効果を発揮した。これが、後に他国との外交交渉において転用されることとなる。
ラクスマンの根室来航と長崎入港許可証の交付
18世紀末、緊迫する対外情勢の中で信牌は新たな役割を担うこととなった。1792年(寛政4年)、ロシアの女帝エカチェリーナ2世の命を受けた使節アダム・ラクスマンが、漂流民の大黒屋光太夫らを伴って蝦夷地の根室に来航し、公式に通商(貿易)を求めてきた。
これに対し、当時の老中・松平定信をはじめとする幕府閣僚は対応を迫られた。祖法とされた「鎖国」体制を維持しつつも、軍事衝突を避けるための穏健な解決策として、幕府は国法により外国との交渉窓口は長崎のみに限られていると説明した。その上で、根室での通商要求を拒否し、将来的に通商を望むのであれば長崎に回航するよう指示し、そのための便宜として長崎入港許可証(信牌)1枚をラクスマンに交付して退去させた。これは、外国の圧力を一時的に回避するための便法(先送り策)であった。
レザノフの長崎来航と通商拒絶の結末
ラクスマンから信牌を譲り受けたロシア皇帝の侍従武官ニコライ・レザノフは、1804年(文化元年)、この信牌を携えてロシア使節として長崎のアレクサンドル(ロシア側船名:ナデジダ号)で来航した。レザノフは正規の入港許可証を所持しているため、当然に通商交渉が開始されるものと期待していた。
しかし、当時の幕政はすでに松平定信が失脚しており、対外態度を硬化させていた。幕府はレザノフを長崎の出島で約半年間にわたって留め置いた末、信牌を没収し、最終的に「鎖国は祖法であり、これ以上の国交や交易は認められない」として通商要求を完全に拒絶した。この幕府の不誠実な対応に憤慨したレザノフは帰国後、部下に日本への報復攻撃を命じ、これがのちの樺太や択捉島におけるロシア船の襲撃事件(文化露寇)や、それに続くゴローニン事件などの日露間の緊張・紛争へと発展することとなった。