大砲 (たいほう)
江戸時代末期
【概説】
江戸時代末期に、欧米列強の脅威に対抗するために佐賀藩などが自国での鋳造に挑戦した洋式兵器。最新の西洋技術である反射炉を建設することで、従来の青銅製から頑丈な鉄製の大砲の製造へと成功を収めた。
海防危機の到来と鉄製大砲の必要性
19世紀に入り、フェートン号事件やアヘン戦争での清の敗北といった情報が日本にもたらされると、江戸幕府や諸藩の間で「海防危機」がにわかに高まった。当時の日本に配備されていた大砲は青銅製の和製大砲が主流であったが、射程や威力の面で西洋の軍艦に対抗することは困難であった。欧米の近代的な軍事力に対抗するためには、安価で強固な鉄製大砲の大量生産が不可欠であり、兵器の近代化が急務となった。
佐賀藩の反射炉建設と国産化への道
鉄製の大砲を鋳造するには、強度の高い鉄を高温で均一に溶かす技術が必要であった。佐賀藩主の鍋島直正は、オランダの技術書をもとに1850年に筑前国築地に日本初の反射炉を建設させ、日本独自の鉄製大砲の鋳造に挑戦した。試行錯誤の末に製造に成功した大砲は、のちに幕府から品川台場(お台場)の防備用として発注されるなど、日本の近代工業化と国防のさきがけとなった。この技術は、薩摩藩や江戸幕府(伊豆韮山反射炉)など他藩にも伝播し、幕末期の産業革命と軍備強化を牽引することとなった。