蕃薯考 (ばんしょこう)
【概説】
江戸中期の儒学者・青木昆陽が、甘藷(サツマイモ)の栽培法や救荒作物としての有用性をまとめて江戸幕府に提出した書物。享保の改革を推進する8代将軍・徳川吉宗の政策に合致し、関東地方における甘藷栽培普及の契機となった農書である。
享保の大飢饉と実学奨励の背景
江戸時代中期、8代将軍となった徳川吉宗は、幕政改革である享保の改革を断行し、実生活に役立つ学問(実学)を広く奨励した。その一環として、漢訳洋書の輸入制限を緩和し、実用的な技術や農業知識の導入を図っていた。こうした中、1732年(享保17年)に西日本を襲った享保の大飢饉は、冷害とウンカの大発生により大名領や天領に甚大な餓死者をもたらし、幕府に対して深刻な飢饉対策、とりわけ救荒作物の確保を迫ることとなった。
当時、京都で儒学や蘭学を学んでいた青木昆陽は、飢饉に強く痩せた土地でも育つ甘藷(サツマイモ)に着目した。甘藷はすでに琉球や薩摩藩などで栽培されていたが、本州、特に関東地方ではまだ広く知られていなかった。昆陽は町奉行の大岡忠相にその有用性を認められ、幕府への建策を行う機会を得た。
『蕃薯考』の提出と甘藷栽培の試験
1735年(享保20年)、昆陽は甘藷の栽培方法や貯蔵法、飢饉の際の調理法などをまとめた『蕃薯考』を執筆し、幕府に提出した。吉宗はこの提案を高く評価し、ただちに試作を命じた。昆陽は小石川薬園(現在の小石川植物園)や、下総国千葉郡幕張村(現在の千葉市)、上総国山辺郡九十九里(現在の千葉県九十九里町)などの地で甘藷の試作を行い、見事に栽培を成功させた。
この成功により、幕府は甘藷の種芋を各地に配付して栽培を奨励し、関東地方をはじめとする東日本へ甘藷栽培が普及していく足がかりが築かれた。昆陽はその功績から、のちに世間から「甘藷先生」と称され、幕府の書物奉行に抜擢されることとなった。
救荒作物としての意義と歴史的影響
『蕃薯考』に端を発した甘藷の普及は、後世の日本の人口維持に極めて大きな役割を果たした。とりわけ、江戸後期に発生した天明の大飢饉や天保の大飢饉の際、米が不作であっても甘藷が育ったことで、関東や甲信地方などの多くの地域で餓死者を免れることができた。これは、従来の米穀単一農法から、災害に強い複合的な農業への移行を促すきっかけともなった。
歴史的に見ると、本書は単なる一農書にとどまらず、幕府(国家)が民政安定のために学問や技術を応用した、初期の「官民連携による災害対策・社会福祉政策」の象徴的な史料として高く評価されている。