山脇東洋 (やまわきとうよう)
【概説】
江戸時代中期の京都の医師。日本で初めて公式に刑死者の人体解剖(腑分け)を観察し、その実証的成果を『蔵志』という医学書として出版した人物である。彼の業績は、伝統的な中国医学の理論から実証に基づく西洋的な近代医学へと移行する、日本医学史上の重大な転換点となった。
古方派の医師としての出発と旧来医学への疑念
山脇東洋は、江戸時代中期に京都に生まれた医師である。彼は当時勃興しつつあった古方派(こほうは)の有力な医師である後藤艮山(ごとうこんざん)に師事した。当時の日本の医学界では、中国の金・元の時代に確立された、陰陽五行説に基づく思弁的で理屈重視の医学(後世派)が主流であった。これに対し、古方派は古代中国の『傷寒論』に立ち返り、実際の臨床や実証を重んじる一派であった。
東洋は古方派の実証的な態様を受け継ぎつつも、古来から信じられてきた「五臓六腑」などの人体構造論に対して次第に疑念を抱くようになる。カワウソなどの動物の解剖を行い、さらに長崎経由で伝わった西洋の解剖書(ドイツ語版のヴェサリウス解剖書など)の精緻な図版を目にするにつれ、中国の古典医学書に描かれた内臓図と実際の臓器の形態が異なるのではないかと考えるようになったのである。
日本初の人体解剖(腑分け)の実施
人体の内部構造を自らの目で確かめたいという欲求に駆られた東洋は、京都所司代に対して刑死者の解剖の許可を願い出た。当時の日本では、儒教の「身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり」という教えから、人体に刃物を入れることはタブーとされており、医師による解剖は行われていなかった。
しかし、宝暦4年(1754年)、京都所司代からの異例の許可が下り、京都の六角獄舎において処刑された死刑囚の人体解剖(腑分け)が行われた。これが、日本において公式な記録に残る最初の人体解剖である。なお、当時の身分制の制約から東洋自身が直接メスを握ったわけではなく、被差別民の刑吏が執刀し、東洋やその門人たちがそれを観察・記録するという形式がとられた。
『蔵志』の刊行と医学界への衝撃
東洋は宝暦9年(1759年)、この解剖で得られた観察記録と自ら描かせた内臓のスケッチ(九臓図)をまとめ、『蔵志(ぞうし)』として刊行した。この書において東洋は、旧来の中国医学に基づく内臓図が誤りであることを実証し、自らの目で見たありのままの人体構造を世に問うたのである。
『蔵志』の刊行は、権威ある古典を絶対視していた当時の医学界に大論争を巻き起こした。同じ古方派の吉益東洞をはじめとする保守的な医師たちからは、「解剖などしなくても病気は治せる」「聖人の教えに背く行為だ」として猛烈な非難(『非蔵志』など)を浴びることとなった。しかし、東洋の「自らの目で見て確かめる」という実証主義的な態度は、日本の医学が迷信や思弁から科学へと脱皮するための重要な第一歩であった。
後世の蘭学発展への多大なる影響
山脇東洋が切り開いた実証的解剖の道は、後の時代の医師たちに決定的な影響を与えた。東洋の『蔵志』に触発され、各地で医師による腑分けの観察が行われるようになったのである。
明和8年(1771年)、杉田玄白や前野良沢らが江戸の小塚原刑場で腑分けを見学した際、彼らの手元にはオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』があった。実際の臓器が『ターヘル・アナトミア』の図版と完全に一致することに驚嘆した彼らは、直ちにその翻訳に着手し、のちに『解体新書』(1774年)として結実することとなる。杉田玄白らが刑場に赴くに至った背景には、東洋が『蔵志』によって解剖の有用性を証明し、実証の精神を日本の医学界に植え付けていたという歴史的土壌が存在したのである。山脇東洋は、日本における蘭学・近代医学の幕開けを準備した先駆者として極めて高く評価されている。