西説内科撰要 (せいせつないかせんよう)
【概説】
江戸時代後期の1793(寛政5)年に刊行された、日本最初の西洋内科学の翻訳書。津山藩医の宇田川玄随が、オランダの医師ゴルテルの著書を翻訳・編集して著した医学書である。
『解体新書』から『西説内科撰要』へ――外科から内科への進展
1774年、前野良沢や杉田玄白らによって『解体新書』が刊行され、日本の医学界に大きな衝撃を与えた。しかし、『解体新書』がもたらした知見は主に解剖学(外科の基礎)であり、当時の医療の主流であった内科治療においては、依然として中国伝来の漢方医学(東洋医学)が支配的であった。
このような状況のなか、西洋医学の治療理論や病理学そのものを体系的に導入しようとする試みが現れる。その記念碑的な成果となったのが、宇田川玄随による『西説内科撰要』である。玄随は、オランダの医学者ヨハネス・デ・ゴルテルの著書『内科書』を入手し、多大な苦難の末にその翻訳を完成させた。これにより、日本の洋学(蘭学)は「形」を見る解剖学の段階から、体内器官の「機能」や病気の原因を理論的に究明する内科学の段階へと、学問的な進化を遂げることとなった。
漢方医学との融和と新たな翻訳語の創出
『西説内科撰要』の大きな特徴は、西洋の病理概念を日本の医師たちに理解させるため、東洋医学(漢方)の用語を巧みに応用・折衷しながら記述されている点にある。玄随は伝統的な漢方医学のパラダイムを否定し去るのではなく、それとの比較や対応関係を示すことで、未知の西洋医学の普及を図った。
また、翻訳の過程で「神経」などの新しい概念に対応する訳語の選定・創出が行われた。こうした翻訳作業を通じて蓄積された語彙や翻訳技法は、その後の洋学研究における基盤となり、日本語における近代学術用語の形成にも大きな影響を与えた。
津山宇田川家と幕末洋学への系譜
著者である宇田川玄随は、美作国津山藩(現在の岡山県津山市)の藩医であった。彼の業績は、養子の宇田川玄真、さらにその養子である宇田川榕菴へと継承されていく。津山宇田川家は三代にわたり、日本の近代科学の先駆者として機能した。
玄真は『西説内科撰要』の改訂に取り組み、榕菴は日本初の本格的な化学書『舎密開宗』や植物学書『植学啓原』を著した。宇田川玄随による『西説内科撰要』の刊行は、単に一冊の医学書が誕生したというにとどまらず、日本における本格的な「近代科学(サイエンス)」の受容と展開を基礎づける、極めて重要な歴史的画期であったといえる。