賀茂真淵

高校日本史的重要度
★★★

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淵

「淵」の書き方

賀茂真淵 (かものまぶち)

1697〜1769

【概説】
江戸時代中期の国学者、歌人。荷田春満に師事して古道を学び、『万葉集』をはじめとする古代文学の文献学的研究を通じて国学という学問分野を大成させた。儒教などの外来思想を排して日本固有の精神を究明し、本居宣長らを育てて後世の日本思想史に決定的な影響を与えた人物。

生い立ちと学問への志

賀茂真淵は、遠江国浜松(現在の静岡県浜松市)の賀茂神社の神官の家に生まれた。幼少より学問に親しみ、青年期になると京都へ赴いて、伏見稲荷の神官であった荷田春満(かだのあずままろ)に師事した。春満のもとで古典や古道への関心を深めた真淵は、師の死後に江戸へ下り、学問の道を追求し続けた。

やがてその該博な知識が認められ、幕府の御三卿の一つである田安家の当主・田安宗武(たやすむねたけ、徳川吉宗の次男)に和学御用として仕えることとなった。宗武自身も優れた文化人であったため、真淵は豊かな庇護と豊富な蔵書を利用できる恵まれた環境を得て、本格的な古典研究に没頭していくこととなる。

『万葉集』の研究と「益荒男ぶり」

真淵の学問の最大の功績は、日本最古の歌集である『万葉集』の厳密な文献学的研究を推し進めたことにある。当時の日本思想界は儒教や仏教に深く影響されていたが、真淵はこうした外来思想を「からごころ(漢意)」として排斥し、それらが伝来する以前の古代日本人の純粋で大らかな精神状態こそが、日本人の理想的な姿であると考えた。

真淵はこの古代の精神を「高く直き心」や「雄々しく雅びやかなる心」と表現し、その力強くて率直な歌風を「益荒男ぶり(ますらおぶり)」と呼んで高く評価した。平安時代の『古今和歌集』などに見られる女性的で優美な「たをやめぶり(手弱女ぶり)」を退け、万葉の時代の素朴で力強い精神への回帰を強く主張したのである。この思想は彼の主著である『万葉考』や『国意考(こくいこう)』にまとめられている。

「松阪の一夜」と本居宣長への継承

真淵の生涯を語るうえで欠かせない歴史的事件が、1763年(宝暦13年)の「松阪の一夜」である。伊勢神宮への参詣の帰途、伊勢国松阪に立ち寄った真淵の宿を、当時まだ無名の一介の町医者であった本居宣長(もとおりのりなが)が訪問した。

宣長から『古事記』研究への熱い志を打ち明けられた真淵は、「古代の精神を正しく理解するためには、まず『万葉集』を学んで古代の言葉(雅語)を究めることが不可欠である」と、学問の正しい順序と実証的な方法論を諭し、宣長を門人として受け入れた。この一夜の出会いによって真淵の古道思想は宣長へと継承され、後に『古事記伝』という国学の金字塔として結実することになるのである。

歴史的意義と「県居派」の形成

賀茂真淵は、契沖から荷田春満へと受け継がれてきた古典研究をさらに深化させ、単なる和歌や文学の領域にとどまっていた学問を、日本固有の精神や道徳を追究する思想体系としての「国学」へと発展・大成させた。彼の居宅が「県居(あがたい)」と呼ばれたことから、その門流は県居派(江戸派)と呼ばれた。

県居派からは、加藤千蔭(かとうちかげ)や村田春海(むらたはるみ)、塙保己一(はなわほきいち)など、数多くの優秀な学者や歌人が輩出された。真淵は、荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人に数えられ、江戸時代の文化と思想の形成において極めて重要な地位を占めている。

最終更新:
2026年8月12日 @ 16:37

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