山県大弐 (やまがただいに)
【概説】
江戸時代中期の儒学者、兵学者。著書『柳子新論』において幕府政治を激しく批判し、先駆的な尊王論を唱えた人物。1767年の「明和事件」で幕府転覆の嫌疑をかけられ、死罪となった。
儒学と兵学の修得、そして『柳子新論』の執筆
山県大弐は甲斐国(現在の山梨県)の与力の子として生まれた。若くして儒学や兵学のほか、医学、神道、天文学など幅広い学問を修め、後に江戸へ出て八丁堀に私塾「柳荘(りゅうそう)」を開いた。そこで多くの門弟に兵学や儒学を講じ、その名声は高まっていった。
大弐の思想を最もよく表しているのが、1759(宝暦9)年に著された『柳子新論(りゅうししんろん)』である。同書において大弐は、古代の天皇による「王道」政治を理想とし、現在の武家(徳川幕府)による政治を「覇道」にすぎないと痛烈に批判した。さらに、政治の実権を朝廷に返還すべきとする、極めて先駆的な尊王思想を展開した。
明和事件と非業の死
大弐の過激な幕政批判と、その塾に集う門弟たちの存在は、次第に幕府の警戒を引き起こすこととなった。1767(明和4)年、門弟の密告などにより、大弐が浪人を集めて甲府城の奪取など幕府転覆を謀略しているという疑いがかけられた。これが明和事件である。
この事件により、大弐や、同調者であった公家の尊王論者・藤井右門(ふじいうもん)らが捕らえられた。取り調べの結果、武力蜂起の具体的な企ては立証されなかったものの、著書『柳子新論』における幕府批判が不敬とみなされ、山県大弐は死罪(斬首)に処された。また、この事件の余波で、かつて「宝暦事件」で追放されていた尊王論者の竹内式部(たけのうちしきぶ)も重罪に問われ、八丈島への流罪となった(流刑の途上で病没)。
先駆的な尊王論者としての歴史的意義
山県大弐の思想は、武家政治が依然として強固であった江戸時代中期において、天皇を中心とする国家秩序を構想した点で非常に特異かつ先駆的なものであった。彼の主張した尊王論は、単なる懐古趣味にとどまらず、現体制(幕府)を揺るがす批判の武器となり得ることを示した。
明和事件による大弐の処刑は、幕府による厳しい思想弾圧の一例であったが、その尊王思想は絶えることはなかった。幕末に至ると、吉田松陰をはじめとする尊王攘夷派の志士たちに深く信奉され、明治維新へと向かう変革期の思想的源流の一つとして高く再評価されることとなった。