上杉治憲(鷹山) (うえすぎはるのり(ようざん)
【概説】
江戸時代中期から後期にかけての出羽国米沢藩の第9代藩主。「なせば成る」の言葉で知られ、徹底した倹約と産業奨励によって破綻寸前の藩財政を見事に立て直した名君である。
破綻寸前の米沢藩と若き藩主の誕生
米沢藩上杉家は、戦国大名の上杉謙信を祖とする名門であるが、江戸時代には度重なる減封により、当初の120万石から15万石にまで領地を減らされていた。しかし、名門の誇りから家臣団の規模を縮小できず、藩財政は慢性的な大赤字に陥っていた。第8代藩主・上杉重定の時代には借財が膨れ上がり、幕府に領地を返上することすら検討されるほどの危機的状況にあった。
このような状況下で、日向国高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれた直丸(のちの治憲)は、母方の祖母が上杉家出身であった縁から、10歳で重定の養子として迎えられた。1767年、17歳で家督を継いだ上杉治憲は、倒産寸前の藩を立て直すという過酷な使命を背負うこととなった。
大倹約の断行と産業の振興
治憲は藩主就任と同時に大倹約令を発布した。自らの生活費を大幅に削減し、食事は一汁一菜、衣服は木綿に限るなど、率先して質素倹約を実践した。さらに、抜本的な藩政改革に反対する保守派の重臣たちを隠居・切腹に処し(七家騒動)、改革の指導体制を強固なものとした。
単なる支出削減にとどまらず、治憲は領内の富国強兵を目指し、農村の復興と産業奨励に力を注いだ。漆・桑・楮(こうぞ)などの特用林産物を百万本植樹する計画を推進したほか、青苧(あおそ)や桑を活かした織物業を奨励し、これがのちの特産品である米沢織へと発展した。また、農民の負担を軽減し荒れ地の開墾を進めるとともに、藩主自らが鍬を握る「籍田の礼(せきでんのれい)」を行って、労働の尊さを身をもって示した。
天明の飢饉の克服と人材育成
治憲の改革において特筆すべきは、領民の命を守るための備荒貯蓄(びこうちょちく)の制度化である。平時から凶作に備えて米や金銭を蓄えさせ、非常食となるウコギの生垣を奨励するなどした結果、全国で甚大な被害を出した天明の大飢饉(1782年〜1788年)において、米沢藩からは一人の餓死者も出さなかったと伝えられている。
また、改革を推進するための人材育成にも尽力した。尾張国の学者である細井平洲(ほそいへいしゅう)を師として招き、1776年に藩校興譲館(こうじょうかん)を再興した。興譲館では身分にかかわらず優秀な人材を育成し、藩士たちの道徳的自覚と実学の奨励を図った。
「伝国の辞」と名君としての評価
治憲は1785年、35歳の若さで家督を前藩主の実子である治広に譲り、隠居して鷹山(ようざん)と号した。隠居に際して治広に与えた藩主としての心得が「伝国の辞」(でんこくのじ)である。「国家人民は君主の私物ではない」という民主主義的とも言える思想を説いたこの教えは、以後の上杉家において代々受け継がれた。
鷹山は隠居後も実質的な指導者として後継者を支え続け、その生涯をかけて米沢藩を再建に導いた。彼の残した「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」という歌は、その不屈の精神を象徴している。明治時代には内村鑑三の著書『代表的日本人』で世界に紹介され、現代に至るまで理想のリーダー像として高い評価を受け続けている。