神田青物市場

江戸にあった、幕府公認の巨大な青物(野菜・果物)の卸売市場はどこか。
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重要度
★★

神田青物市場 (かんだあおものいちば)

江戸初期〜1928年

【概説】
江戸の神田多町(現在の東京都千代田区神田多町)を中心に発展した、幕府公認の青物(野菜・果物)の巨大卸売市場。日本橋の魚市場、京橋の青物市場と並び「江戸三大市場」の一つに数えられ、巨大都市・江戸の旺盛な消費を支えた流通の要衝。

起立と幕府の公認(御用市場としての成長)

神田青物市場の起源は、江戸初期の慶長年間(1596〜1615年)頃に遡る。徳川家康の江戸入国にともない、三河国(現在の愛知県)から移住してきた商人たちが、神田多町周辺で幕府に納めるための野菜(御用菜)を売り出したことが始まりとされる。当初は幕府への納入を主目的とする特権的な市場であったが、江戸の急速な都市化と人口増加にともない、一般市民向けの取引も急速に拡大していった。

江戸幕府は、急増する市民の食生活を安定させるため、流通経路の掌握と税収の確保を目的として市場の組織化を進めた。これにより神田の市場は、幕府から公式な許可を得た問屋が集まる「公認市場」として位置づけられ、江戸市中における青物取引の独占的な地位を確立することとなった。

立地条件と流通システム(神田川の舟運と「問屋」の成立)

神田青物市場が江戸最大の青物市場へと発展した背景には、優れた水上交通の利便性がある。市場の北側を流れる神田川や、そこに通じる運河(鎌倉堀など)を利用し、武蔵国(埼玉県・東京都)や下総国(千葉県)などの周辺農村から、舟運によって大量の新鮮な野菜や果物が運び込まれた。また、陸路を通じても「葛西菜」や「練馬大根」といった近郊農業地帯の名産品が次々と運び込まれた。

市場の内部では、全国から集まる荷を買い取る青物問屋と、それを仕入れて市中の八百屋や天秤棒を担ぐ行商(棒手振)に売却する仲買が組織され、効率的な分業システムが成立していた。この神田多町一帯は朝早くから多くの人々で活気に満ち溢れ、日本橋の魚河岸と並んで「江戸の台所」を象徴する場所となった。

近代への変遷と秋葉原への移転

明治維新後も、神田青物市場は東京市民の食生活を支える中枢として存続したが、近代化による人口急増にともない、従来の狭隘な神田多町一帯では需要をさばききれなくなった。また、交通機関が舟運から鉄道へとシフトするなかで、駅への近接性が求められるようになった。

決定的な転機となったのが、1923年(大正12年)の関東大震災である。この震災によって多町の市場は壊滅的な被害を受けた。これを機に、東京市による帝都復興計画の一環として市場の再整備が断行され、1928年(昭和3年)に秋葉原駅に隣接する神田花岡町(現在の秋葉原UDXなどの所在地)へと移転し、近代的な「東京市神田中央卸売市場」として生まれ変わった。この地で長く親しまれた神田市場は、平成期にその役目を大田市場(大田区)へと引き継ぎ、江戸時代から続いた長い歴史に幕を下ろした。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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