大日本史
【概説】
水戸藩主・徳川光圀の命により編纂が開始された、神武天皇から後小松天皇までの歴史を紀伝体で記した日本の歴史書。1657年(明暦3年)に事業が始まって以降、幕末から明治時代にかけて長きにわたり編纂が続けられた。その編纂過程で培われた大義名分論は「水戸学」として結実し、幕末の歴史的動向に多大な影響を与えた。
編纂の開始と彰考館の設置
水戸藩の第2代藩主である徳川光圀は、司馬遷の『史記』に記された伯夷・叔斉の故事に深く感銘を受け、日本独自の正史を編纂するという壮大な構想を抱いた。1657年(明暦3年)、光圀は江戸の駒込邸に史局を設置し、全国から優秀な学者を集めて歴史編纂事業を開始した。この史局はのちに彰考館(しょうこうかん)と名付けられ、水戸と江戸を行き来しながら史料の収集・考証の拠点となった。また、明から亡命してきた儒学者・朱舜水を招聘するなど、高度な儒学思想(朱子学)に基づく歴史観が導入された。
紀伝体の採用と厳格な大義名分論
『大日本史』の大きな特徴は、日本の歴史書として中国の正史に倣い、天皇の事績を記す「本紀」と、臣下などの事績を記す「列伝」を中心とした紀伝体を採用したことである。対象期間は初代・神武天皇から、南北朝合一が成された第100代・後小松天皇までとされた。
光圀は編纂にあたり、君臣の義や正統性を重んじる朱子学的な大義名分論を極めて厳格に適用した。その歴史観は「三大特筆」として知られる独自の見解に表れている。具体的には、神功皇后を歴代天皇から除外すること、壬申の乱で敗死した大友皇子を弘文天皇として即位したと認めること、そして南朝を正統とすることである。特に南朝正統論は、皇位の正統性がどこにあるのかを論理的に追求した結果であり、後世の皇国史観にも多大な影響を及ぼした。
水戸学の形成と幕末の尊王運動への影響
『大日本史』の編纂過程で培われた尊王論や歴史観は、やがて水戸藩独自の学問である「前期水戸学」として発展した。18世紀後半から19世紀にかけては、藤田幽谷や会沢正志斎、藤田東湖らによって国体論や攘夷論と結びつき、「後期水戸学」へと変貌を遂げた。徳川御三家の一つである水戸藩が、天皇を至上の存在として絶対視する強烈な尊王思想の震源地となったことは歴史の皮肉であるが、この水戸学の思想は全国の志士たちを熱狂させ、幕末の尊王攘夷運動の強力な理論的支柱となったのである。
約250年にわたる編纂事業の結実
光圀の死後も、『大日本史』の編纂は水戸藩の国家的事業として歴代藩主に引き継がれた。江戸時代を通じて本紀と列伝の編纂が進められ、幕末期の社会的混乱の中にあっても事業は継続された。幕府の崩壊と水戸藩の解体を経て、最終的に制度や文化などを記す「志」や「表」の部分が完成したのは、編纂開始から実に約250年が経過した明治39年(1906年)のことであった。全397巻に及ぶこの膨大な歴史書は、単なる史料の集成にとどまらず、日本の近代国家形成におけるイデオロギーの源流の一つとして、日本思想史において極めて重要な位置を占めている。