水戸学
【概説】
江戸時代に水戸藩で形成された、『大日本史』の編纂事業を中心とする儒学・国学・神道を融合した学問体系のこと。朱子学の大義名分論に基づいて天皇の絶対性を説き、幕末期における尊王攘夷思想の強力な理論的支柱となった。
前期水戸学の成立と『大日本史』編纂
水戸学の起源は、明暦3年(1657年)に水戸藩第2代藩主の徳川光圀(水戸黄門)が、江戸駒込の別邸に史局(のちの彰考館)を設置し、日本の歴史書である『大日本史』の編纂を開始したことに遡る。光圀は明の亡命儒学者である朱舜水を招聘し、その教えを深く受け入れた。これにより、水戸藩の修史事業は朱子学の厳格な大義名分論(君臣・父子の序列や義理を重んじる思想)を中核とするようになった。
この時期に形成された学問を「前期水戸学」と呼ぶ。前期水戸学の特徴は、儒教的な道徳観念を用いて日本の歴史を解釈し直した点にある。特に、神話時代から連綿と続く天皇の万世一系を重んじ、南北朝時代においては南朝を正統とする「南朝正統論」を打ち立てたことは、のちの皇国史観に多大な影響を与えることとなった。
後期水戸学の展開と「内憂外患」
18世紀末から19世紀にかけて、日本近海にロシアやイギリスなどの異国船が頻繁に接近し始める(外患)と同時に、国内では幕府の財政難や農村の荒廃といった社会矛盾(内憂)が深刻化していった。こうした危機的状況を背景に、水戸学は単なる歴史編纂の学問から、現実の政治課題を解決するための実践的な思想へと変貌を遂げる。これが「後期水戸学」である。
後期水戸学の中心となったのは、彰考館の総裁を務めた藤田幽谷や、その門下である会沢正志斎、幽谷の息子である藤田東湖らであった。彼らは、日本の危機を克服するためには、国内の結束を固め、天皇を中心とした国家体制を再認識する必要があると考えた。
会沢正志斎『新論』と尊王攘夷の体系化
文政8年(1825年)、異国船打払令が出された同じ年に、会沢正志斎は後期水戸学の金字塔とも言える『新論』を著した。同書において会沢は、日本が天照大神の末裔たる天皇をいただく神聖な国家であるという「国体」の概念を明確に提示した。そして、迫り来る欧米列強の脅威に対抗するためには、天皇の権威の下に日本中の心を一つにし(尊王)、外敵を力で打ち払うべきだ(攘夷)という強烈な主張を展開した。
本来、水戸学における「尊王」とは、天皇を尊ぶことで幕府の権威を補完し、幕藩体制を強化しようとする「尊王敬幕」の論理であった。しかし、『新論』が提示した体系的な尊王攘夷論は、幕府の弱腰な外交政策に対する不満が高まるにつれて、現状を打破するための革新的なイデオロギーとして一人歩きを始めていく。
幕末政局への影響と水戸藩の悲劇
第9代水戸藩主の徳川斉昭は、藤田東湖らを登用して後期水戸学の思想を藩政改革に全面的に取り入れた。天保12年(1841年)には藩校である弘道館を設立し、文武両道と水戸学の振興を図った。ここで説かれた強烈なナショナリズムは、長州藩の吉田松陰をはじめとする全国の志士たちに熱狂的に読まれ、倒幕・王政復古を目指す原動力となった。
しかし、尊王攘夷運動の震源地となった水戸藩自身は、その過激な思想ゆえに深刻な内部対立を抱えることとなる。幕末期には、尊攘激派の天狗党と保守派の諸生党との間で血で血を洗う凄惨な内戦(天狗党の乱など)が勃発した。結果として水戸藩は有為な人材の大部分を失い、自らが生み出した思想が成就した明治維新において、新政府の主導権を握ることはできなかったという歴史的なアイロニーを残している。