徳川家宣

新井白石や間部詮房を登用し、正徳の政治を開始した第6代将軍は誰か。
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徳川家宣 (とくがわいえのぶ)

1662年〜1712年

【概説】
江戸幕府の第6代将軍。第5代将軍・徳川綱吉の甥にあたり、綱吉の死後に将軍職を継いだ。新井白石や間部詮房らを重用し、「生類憐みの令」を廃止して「正徳の治」と呼ばれる文治政治を推進した。

甲府藩主から将軍の座へ

徳川家宣は1662年、甲府藩主・徳川綱重(第3代将軍・徳川家光の三男)の長男として生まれた。幼名は虎松、のちに綱豊(つなとよ)と名乗った。第5代将軍であった徳川綱吉は叔父にあたる。若くして父・綱重を亡くしたため甲府藩25万石を継承し、藩主として長らく江戸の甲府藩邸で過ごした。

当時の幕府では、綱吉に後継ぎとなる男子がいなかったため、長らく将軍継嗣問題がくすぶっていた。1704年、綱吉の有力な後継候補であった御三家の水戸藩主・徳川綱条への継承が見送られ、血統的に最も将軍家に近い綱豊が将軍世嗣として江戸城西の丸に迎え入れられた。この時に名を家宣と改め、次期将軍としての地位を確固たるものとしたのである。

「生類憐みの令」の廃止と旧弊の刷新

1709年に綱吉が死去すると、家宣は48歳で第6代将軍に就任した。家宣が将軍として最初に行った重大な決断が、綱吉の代名詞でもあった生類憐みの令の廃止である。綱吉の葬儀の直前に出されたこの法令の撤回は、厳しい監視と処罰に苦しんでいた江戸の庶民から大いに歓迎され、家宣は一躍「名君」として称えられた。ただし、牛馬の遺棄を禁ずるなどの合理的な動物愛護の側面については、その後も維持されている。

また、人事面でも大きな転換を図った。綱吉の寵愛を受けて幕政を牛耳っていた側用人の柳沢吉保が自ら辞職を申し出ると、これをすんなりと認めて隠居させた。代わって幕政の中心に据えられたのは、家宣が甲府藩主時代から重用していた側近たちであった。

正徳の治の幕開け:新井白石と間部詮房の登用

家宣は、甲府時代からの寵臣である間部詮房(まなべあきふさ)を側用人に任命し、将軍と老中の間を取り次ぐ要職に就けた。さらに、儒学者として侍講を務めていた新井白石(あらいはくせき)を幕政のブレーンとして登用した。将軍家宣・側用人間部・学者白石の三者による、儒教的理想主義に基づく政治改革は「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ばれる。

彼らは、幕府の権威を高めつつ、疲弊した財政の立て直しや儀礼の整備に取り組んだ。財政面では、綱吉時代に発行された品位の低い元禄金銀の流通が物価高騰(インフレーション)を引き起こしていたため、これをかつての良質な貨幣に戻す改鋳の準備を進めた。外交面では、朝鮮通信使の待遇を簡素化しつつ、将軍の呼称を「日本国大君」から「日本国王」へと変更し、対等な外交関係の構築と幕府の威信向上を図った。さらに朝廷政策においても、皇統の断絶を防ぐために閑院宮家(かんいんのみやけ)の創設を支援するなど、公武関係の融和にも尽力した。

短い治世と歴史的意義

家宣による政治刷新は順調に滑り出したかに見えたが、1712年、将軍就任からわずか3年余りで家宣は病に倒れ、51歳でこの世を去った。後継者には、まだ幼い三男の徳川家継(第7代将軍)が選ばれ、新井白石や間部詮房がこれを補佐して「正徳の治」を継続していくことになる。

家宣の治世は極めて短期間であったものの、日本史におけるその意義は大きい。綱吉時代の極端な専制政治や法令の濫発から、儒教的な理に基づく穏健な「文治政治」への軌道修正を成功させたからである。幕府の権威再構築を目指したこの正徳の政治は、のちに第8代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」へと受け継がれ(また一部は反発を受けながらも)、江戸時代中期の幕政の方向性を決定づける重要な転換点となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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