雨森芳洲 (あめのもりほうしゅう)
【概説】
江戸時代中期の儒学者であり、対馬藩に仕えて朝鮮との外交実務に尽力した人物。木下順庵の門下で語学に優れ、著書『交隣提醒』の中で「誠信の交わり」という独自の善隣外交理念を説いた。朝鮮通信使の応接において、同門の新井白石と外交儀礼を巡って激しい論争を展開したことでも知られる。
木門十哲の秀才と対馬藩への仕官
雨森芳洲は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)の町医者の家に生まれた。京都で医学を学んだのち、江戸に出て当時を代表する儒学者・木下順庵の門下生となった。芳洲は非常に優秀であり、新井白石や室鳩巣らとともに「木門十哲(もくもんじゅってつ)」の一人に数えられた。
1689年(元禄2年)、順庵の推薦を受けた芳洲は、朝鮮外交を独占的に担っていた対馬藩(宗氏)に仕官する。対馬藩は幕府と朝鮮王朝の間を取り持つ極めて重要な位置にあった。芳洲は長崎で中国語を学び、さらには釜山の倭館(わかん)に滞在して朝鮮語を習得するなど語学に磨きをかけ、対馬藩の外交実務の最高責任者である「真文役(しんぶんやく)」として活躍するようになった。
『交隣提醒』にみる「誠信の交わり」
芳洲の外交思想の核心は、1728年に著した外交指針書『交隣提醒(こうりんていせい)』に記された「誠信(せいしん)の交わり」という理念である。芳洲は「誠信」を「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わること」と定義した。
当時の日本には、中華思想の影響や豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の優越感から、朝鮮を見下すような風潮も存在した。しかし芳洲は、日本の風俗を基準にして朝鮮の文化や習慣を非難する自国中心主義を戒め、両国の違いを認めたうえで相手を尊重する対等な関係を強く主張した。この多文化共生ともいえる柔軟で進歩的な態度は、江戸時代の善隣外交を根底から支えることとなった。
新井白石との対立と朝鮮通信使
芳洲の生涯で最も劇的な出来事の一つが、1711年(正徳元年)の朝鮮通信使来日の際における、同門・新井白石との激しい対立である。当時、幕府の権力を握り「正徳の治」を主導していた白石は、将軍の権威を高める目的で、朝鮮国書における将軍の呼称を「日本国大君」から「日本国王」に変更させ、通信使への待遇を簡素化するなどの外交儀礼の改定を強行した。
これに対し、現場で外交を担当する芳洲は猛反発した。これまでの慣例を一方的に破ることは朝鮮側の面子を潰し、長年築き上げてきた両国の信頼関係を破壊する行為だと考えたからである。芳洲は幕府の意向と通信使の強い不満との間で板挟みになりながらも、粘り強い交渉で破局を回避し、外交的危機を乗り切った。この一連の対立は、中央の論理(幕府の権威)と現場の論理(外交の実務と誠意)の衝突という側面を色濃く示している。
歴史的評価と現代への遺産
芳洲はその後も1719年(享保4年)の通信使来日の際に再び応接の任に当たり、朝鮮側の使節団からもその深い学識と誠実な人柄が高く評価された。晩年は対馬に隠棲して後進の育成や著述に専念し、88歳でその生涯を閉じた。
近代以降、日清戦争や韓国併合の過程で日本の対アジア外交が大きく変質するなかで、芳洲の「誠信の交わり」は顧みられない時期が続いた。しかし戦後、日韓の歴史的関係が見直される中で彼の事績は再評価され、1990年には韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領が国会演説で芳洲の名を挙げて善隣友好の象徴として讃えた。雨森芳洲の思想は、単なる江戸時代の一外交官の信条にとどまらず、現代の国際社会においても通底する普遍的な相互理解のあり方を示しているといえる。