稲生若水 (いのうじゃくすい)
【概説】
江戸時代中期の儒学者、本草学者。加賀藩主前田綱紀の保護を受け、日本における博物学・薬物学の先駆となる膨大な本草学の百科事典『庶物類纂』の編纂を開始した人物である。彼の学問は、のちの享保の改革期における実学奨励の基礎を築くこととなった。
京都での学問的形成と本草学への傾倒
稲生若水は明暦元年(1655年)、京都の医師の子として生まれた。若水は儒学を伊藤仁斎の門下(古義堂)で学び、同時に医学や中国の本草学を深く修めた。当時、中国から輸入された『本草綱目』などの影響で、動植物や鉱物を医療目的で分類・研究する「本草学」への関心が高まっていた。若水は単に中国の文献を追従するだけでなく、日本の実際の動植物との照合を重視する実証的な学問姿勢を培っていった。これが後に、日本独自の博物学へと発展する源流となった。
加賀藩主・前田綱紀の支援と『庶物類纂』の編纂
若水の優れた才能に着目したのが、加賀藩5代藩主の前田綱紀であった。綱紀は「天下の書府」と呼ばれるほど膨大な図書を収集し、学問を深く奨励した名君として知られる。元禄6年(1693年)、若水は綱紀に招かれて加賀藩に仕えることとなり、藩の全面的な財政支援のもとで、古今東西の本草学の知識を網羅する一大百科事典『庶物類纂(しょぶつるいさん)』の編纂事業に着手した。これは、中国の古典から動植物・鉱物に関する記述をすべて抜き出し、分類・整理するという、気の遠くなるような大規模な共同編纂プロジェクトであった。
志半ばでの病没と幕府への事業継承
若水は『庶物類纂』の完成に心血を注いだが、正徳5年(1715年)、362巻まで書き進めたところで病没した。しかし、彼の蒔いた種はここで途絶えなかった。その編纂事業の価値は、享保の改革を推進し、実学を重んじた8代将軍徳川吉宗によって高く評価されることとなる。吉宗は、若水の高弟である丹羽正伯を召し出し、幕府の事業として『庶物類纂』の継続編纂を命じた。最終的にこの事典は、1000巻を超える壮大な規模へと増補されて完成した。若水の先駆的な業績は、江戸時代後期の本草学・博物学(平賀源内や小野蘭山ら)の隆盛へとつながる、重要な架け橋となったのである。