シドッチ
【概説】
江戸時代中期の正徳期に、鎖国下の日本へ潜入したイタリア人カトリック宣教師。屋久島で捕らえられて江戸に送られ、儒学者・新井白石の尋問を受けた。彼の口述した西洋の最新の地理や歴史の知識は、白石の『西洋紀聞』などにまとめられ、以後の日本の対外認識に多大な影響を与えた。
鎖国下の日本への決死の潜入
ジョバンニ・バッティスタ・シドッチは、イタリアのシチリア島出身のカトリック司祭である。17世紀以降、江戸幕府は厳しい禁教令を敷き、いわゆる「鎖国」体制を完成させていた。ヨーロッパからの来航者はプロテスタント国であるオランダのみに限定され、カトリック宣教師の日本への渡航は長らく途絶えていた。しかし、シドッチは日本への布教の志を抱き、ローマ教皇の許可を得て東アジアへと向かった。
マニラで数年間日本語や日本の情勢を学んだ後、1708(宝永5)年、シドッチは侍の変装をして単身、薩摩藩領の屋久島に上陸した。しかし、言葉も通じず風貌も異なる彼はすぐに発見されて捕縛された。長崎へ移送されて取り調べを受けたのち、翌年に江戸へと護送され、小石川の切支丹屋敷(きりしたんやしき)に収容された。
新井白石による尋問と驚嘆
江戸に送られたシドッチの尋問を担当したのが、第6代将軍・徳川家宣の侍講として幕政を主導していた儒学者・新井白石である。白石は通詞(通訳)を交えて複数回にわたりシドッチと面会し、厳しい尋問を行った。当時の幕府の役人はキリスト教徒を「邪宗門の徒」として忌み嫌うのが常であったが、合理主義者であった白石はシドッチの真摯な態度と、その該博な知識に深く感銘を受けた。
白石は、シドッチが語る西洋の天文学、地理、歴史、風俗などの科学的・客観的な知識と、キリスト教の教義という宗教的な側面とを切り離して評価した。これは、西洋の学術をキリスト教と不可分な「危険思想」と見なしてきた当時の日本の知識人としては画期的な視点であった。白石はシドッチの密入国について、その動機が領土的野心に基づく侵略ではなく純粋な布教にあると判断し、幕府に対して「本国送還」を第一の案として上申している(最終的には第三案の「幽閉」が採用された)。
『西洋紀聞』と『采覧異言』の編纂と歴史的意義
白石がシドッチから聞き出した最新の西洋事情は、日本の知識界に大きな衝撃を与え、二つの重要な著作へと結実した。一つはシドッチとの対話録であり、西洋の地理・歴史やキリスト教の教義への批判的考察をまとめた『西洋紀聞』(せいようきぶん)である。もう一つは、シドッチが持参した世界地図を参考にしつつ、世界各国の地理や風俗を詳述した世界地理書『采覧異言』(さいらんいげん)である。
これらの著作によって、オランダを通じた断片的な情報しか持たなかった日本は、当時の世界情勢やヨーロッパの正確な姿を知ることとなった。特に白石が示した「西洋の科学技術は優れているが、宗教は非論理的である」という態度は、のちの第8代将軍・徳川吉宗による洋書輸入制限の緩和(漢訳洋書の輸入解禁)や、その後の蘭学発展の思想的基盤を準備することになり、日本史において極めて重要な意義を持っている。
悲劇的な最期と近年の発掘
白石の配慮もあり、シドッチは切支丹屋敷において拷問を受けることもなく、比較的厚遇された軟禁生活を送っていた。しかし1714(正徳4)年、シドッチの身の回りの世話をしていた長助・はるという老夫婦の召使に洗礼を授けていたことが発覚する。これが幕府の禁教令に対する明らかな違反とみなされ、シドッチは老夫婦とともに採光のない地下牢へ移された。そして同年、過酷な環境の中で衰弱死した。
長らく彼の墓所の正確な位置は不明であったが、2014年、東京都文京区にある切支丹屋敷跡の発掘調査において3体の人骨が発見された。その後のDNA鑑定などの結果、そのうちの1体がシドッチの遺骨であることが確認され、日本史上の大きな発見として話題を呼んだ。彼の日本への潜入は布教という本来の目的こそ果たせなかったものの、結果として日本に近代的な世界認識をもたらすという、歴史的な大役割を演じることとなったのである。