俵屋宗達 (たわらやそうたつ)
【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した、京都の町衆出身の画家。本阿弥光悦と協力して平安時代の大和絵の伝統に大胆な装飾性を加え、後世の日本美術に多大な影響を与えた琳派(りんぱ)の祖とされる。
京都の町衆文化と「俵屋」の主
俵屋宗達は日本美術史において極めて重要な存在でありながら、その出自や生没年をはじめとする生涯の詳細は深い謎に包まれている。わかっているのは、彼が17世紀初頭の京都で、扇絵や屏風、掛軸、料紙(和歌などを書くための紙)の装飾などを制作・販売する絵屋「俵屋」を営む富裕な町衆であったということである。
当時の京都は、徳川家康によって江戸幕府が開かれた政治的変動期にあったが、文化的には後陽成天皇や後水尾天皇を中心とする朝廷と、上層町衆が結びつき、王朝時代の古典復興を目指す寛永文化が開花していた時期であった。幕府の御用絵師として権威的な画風を確立していた狩野派に対し、宗達は町衆ならではの自由で斬新な感覚を持ち込み、公家や文化人からの熱狂的な支持を集めることとなる。
本阿弥光悦との協働による大和絵の革新
宗達の才能を見出し、その芸術を飛躍させた最大の恩人が、同時代の京都を代表する文化人であり、刀剣の鑑定や書、陶芸に秀でた本阿弥光悦である。光悦は、宗達の営む「俵屋」に金銀の泥(でい)で下絵を描かせ、その上に自身の力強い書をしたためた和歌巻などを数多く制作した。
代表的な協働作品である『鶴下絵三十六歌仙和歌巻(つるしたえさんじゅうろっかせんわかかん)』では、宗達が描く連続する鶴の群れが、単なる背景装飾を超えてリズミカルで卓越したデザイン性を示している。宗達は平安時代以来の伝統的な大和絵の主題や技法を学びつつも、それをそのまま模倣するのではなく、画面の余白を活かした大胆な構図と高い装飾性をもって再構築したのである。
『風神雷神図屏風』と独自の画技
宗達は絵屋の主という身分でありながら、その並外れた画才によって朝廷からも重用され、寛永7年(1630年)頃には、絵師に与えられる僧位としては極めて異例の高位である「法橋(ほっきょう)」に叙せられた。この頃から、工房での量産品とは一線を画す、宗達自身の落款を持つ本画(本格的な肉筆画)の傑作が次々と生み出されるようになる。
その到達点にして最高傑作とされるのが、国宝『風神雷神図屏風』(建仁寺蔵)である。広大な金箔の空間の左右端に風神と雷神を配する緊張感に満ちた構図は、以後の日本絵画のアイコンともいえる存在となった。また、この作品にも見られる宗達独自の技法が「たらし込み」である。これは、先に塗った絵の具が乾かないうちに別の絵の具や墨を滴らし、その滲みや混ざり具合によって偶然の模様や立体感を生み出す技法であり、輪郭線を用いない没骨法(もっこつほう)とともに、宗達の画風を特徴づける重要な技法となった。
「琳派」の祖としての歴史的意義
宗達の死後、その工房である「俵屋」は徐々に衰退していったが、彼が切り拓いた革新的な大和絵のスタイルは決して途絶えることはなかった。約半世紀後、同じ京都の町衆出身である尾形光琳が宗達の『風神雷神図屏風』を模写するなどしてその画風に私淑(ししゅく:直接教えを受けるのではなく、作品を通じて学ぶこと)し、デザイン性をさらに洗練させて大成させたのである。
その後も、江戸時代後期の酒井抱一や鈴木其一らが光琳に私淑し、この系譜は江戸の地で受け継がれていった。このように、狩野派のように血縁や直接の師弟関係によって継承される流派とは異なり、時代や地域を超えて精神とスタイルを慕う画家たちによって形成された緩やかな芸術の系譜を、後世の美術史家は尾形光琳の名をとって「琳派」と名付けた。俵屋宗達は、日本美術において世界的に高く評価されるこの「琳派」の原点にして最大のインスピレーション源として、不動の地位を築いているのである。