町人物
【概説】
江戸時代の小説ジャンルである浮世草子のうち、町人の経済活動や金銭への執着、算段の悲喜劇などを題材とした作品群。井原西鶴によって創始され、貨幣経済が浸透した元禄期の町人社会の現実を冷徹かつユーモラスに描き出した。近世町人文学の代表的なジャンルとして位置づけられている。
浮世草子の展開と町人物の誕生
江戸時代前期、かな文字を主体とした啓蒙的・教訓的な「仮名草子」が広く読まれていたが、1682(天和2)年に井原西鶴が『好色一代男』を著したことで、人間の欲望や現実社会をありのままに描く浮世草子という新たな文学ジャンルが誕生した。西鶴の浮世草子は、題材によって「好色物」「武家物」「町人物」などに大別される。その中でも、町人の生活基盤である経済活動に焦点を当て、金銭をめぐるシビアな現実を題材とした作品群が町人物である。
このジャンルが成立した背景には、17世紀後半(元禄期)における急速な経済発展がある。三都(江戸・大坂・京都)を中心とする都市の繁栄や、全国的な商品流通網の整備により、貨幣経済が社会の隅々にまで浸透した。これにより、身分制社会の最下層に位置づけられながらも、圧倒的な経済力を持つ新興の町人階級が台頭してきた。町人物は、こうした自信に満ちた町人たちの活力を背景としつつ、金銭の力に翻弄される人々の姿を浮き彫りにしたのである。
代表作と金銭のリアリズム
町人物の金字塔とされるのが、1688(元禄元)年に刊行された西鶴の『日本永代蔵』である。「大福新長者教」という副題を持つ本作は、全国各地の実在の豪商をモデルにしたとされる短編集である。町人がいかにして「才覚」と「始末(倹約)」によって巨万の富を築いたか、あるいは放蕩によっていとも簡単に没落していったかを克明に描いた。ここでは、金銭こそが町人の命綱であり、神仏の加護よりも己の才覚こそが頼りであるという徹底したリアリズムが貫かれている。
もう一つの代表作が、1692(元禄5)年刊行の『世間胸算用』である。本作は「大晦日は一日千金」の副題が示す通り、一年の総決算である大晦日を舞台に、借金を取り立てようとする者と、あの手この手で逃れようとする貧乏町人との攻防を描いている。義理や人情よりも現金が優先される冷酷な社会の現実が、笑いとペーソス(哀愁)を交えて巧みに描写されており、経済的弱者の悲喜劇を見事にすくい上げている。
歴史的意義と同時代への影響
町人物の最大の歴史的意義は、それまでの日本文学において忌避されがちであった「金銭に対する人間の執着」を、文学の主要なテーマとして正面から取り上げた点にある。西鶴は、武士の建前や道徳観念から離れ、金銭に生きる町人の本音を肯定しつつ、同時にその欲望が行き過ぎた際の滑稽さや悲惨さを客観的な視点で描き出した。
この町人物の登場は、元禄文化が真に町人のための文化であったことを象徴している。同時代の上方で活躍した近松門左衛門の世話物浄瑠璃(『曽根崎心中』など)が町人の「義理と人情」の板挟みを描いたのに対し、西鶴の町人物は「金銭と才覚」という別の側面から町人社会の本質を突いた。西鶴の死後も、江島其磧(えじまきせき)らによって気質物(かたぎもの)などの浮世草子が書き継がれ、町人の生態を描く系譜は後の江戸文学へと力強く受け継がれていったのである。