人形浄瑠璃
【概説】
浄瑠璃(語り物)と三味線の伴奏に合わせて操り人形を動かす、江戸時代に大流行した日本の伝統的な演劇。太夫の語り、三味線の音色、人形遣いの繊細な動きが三位一体となることで高度な芸術性を誇り、歌舞伎とともに近世庶民文化の双璧をなした。
成立と初期の展開
日本の伝統芸能である人形浄瑠璃は、中世に流行した『浄瑠璃十二段草子』などに由来する「浄瑠璃語り」と、琉球から伝来して日本独自の改良を遂げた楽器である「三味線」、そしてえびすかきなどの傀儡子(くぐつし)による「人形操り」の三者が結合して成立した。16世紀末から17世紀初頭にかけてこれらの要素が結びつき、江戸時代初期には金平(きんぴら)浄瑠璃などの荒々しく豪快な演目が江戸を中心に流行を見せた。この初期の形態は古浄瑠璃と呼ばれ、まだ人形の操作も素朴なものであった。
近松門左衛門と竹本義太夫による革新
17世紀末の元禄文化の時代に入ると、大坂において竹本義太夫が豊かな情趣と独自の節回しを持つ「義太夫節」を創始し、人形浄瑠璃は劇的な進化を遂げた。この義太夫のために優れた脚本を提供したのが、日本演劇史を代表する劇作家の近松門左衛門である。
近松は従来の歴史的題材を扱う「時代物」を大成させたのみならず、当時の町人社会における義理と人情の葛藤や、実際に起きた心中事件などを題材とした「世話物」という新ジャンルを確立した。1703年に初演された『曽根崎心中』は空前の大ヒットとなり、人形浄瑠璃は単なる大衆娯楽を超えた、高度な芸術作品としての地位を確立したのである。
「三人遣い」の完成と黄金時代
近松以降の享保から寛政期にかけて、人形の操り技術は飛躍的な進化を遂げた。初期の一人の遣い手による素朴な操作から発展し、1734年には『芦屋道満大内鑑』において、一体の人形を三人で操る「三人遣い」の技法が考案された。主遣い(首と右手)、左遣い(左手)、足遣い(両足)の三人が息を合わせることで、人間さながらの繊細でリアルな感情表現が可能となった。
この技法の完成により、人形浄瑠璃は黄金時代を迎えた。竹田出雲や並木宗輔などの優れた作者が輩出され、『仮名手本忠臣蔵』や『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』といった三大名作が次々と生み出され、大衆を熱狂させた。
歌舞伎との相互影響と歴史的意義
人形浄瑠璃は、歌舞伎とともに江戸時代の町人文化を牽引する両輪であった。両者は互いに競い合い、影響を与え合う関係にあった。人形浄瑠璃のために書かれた優れた脚本は、頻繁に歌舞伎の演目として移入され(丸本歌舞伎)、逆に歌舞伎の演出が人形浄瑠璃に取り入れられることもあった。
封建社会の身分制や道徳規範である「義理」と、人間の偽らざる感情である「人情」との板挟みに苦しむ人々の姿を描いた人形浄瑠璃は、当時の庶民の圧倒的な共感を呼んだ。それは近世日本の社会構造や人々の精神世界を色濃く映し出す、極めて重要な文化装置であったといえる。
近代以降への継承と「文楽」
18世紀後半以降になると、役者個人の魅力や華やかな舞台装置を誇る歌舞伎に人気を奪われ、人形浄瑠璃は次第に衰退の道をたどった。多くの座が姿を消す中、19世紀初頭に植村文楽軒が大坂で開いた座(のちの文楽座)が唯一の専門劇場として伝統を守り抜いた。そのため、現在では人形浄瑠璃そのものを「文楽」と呼ぶのが一般的となっている。太夫・三味線・人形が三位一体となって織りなす独自の芸術性は現代においても高く評価されており、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている。