若衆歌舞伎 (わかしゅかぶき)
【概説】
江戸時代前期、女歌舞伎が幕府によって禁止された後に流行した、前髪立ちの美少年(若衆)が演じた初期の歌舞伎。男色の対象として熱狂的な人気を博したが、武士や町人の間で刃傷沙汰などの風紀の乱れを引き起こしたため、1652年(承応元年)に禁止された。
女歌舞伎の禁止と若衆歌舞伎の台頭
1603年(慶長8年)に出雲阿国が京都で始めた「かぶき踊り」は、またたく間に民衆の心を捉え、各地の遊女屋がそれを取り入れた女歌舞伎(遊女歌舞伎)が絶大な人気を博した。しかし、女歌舞伎は売春を伴うことが多く、役者を巡って武士や町人が争いごとを起こすなど、風紀紊乱の温床となった。これに対し、社会秩序の安定を図る江戸幕府は、1629年(寛永6年)に女性の舞台出演を全面的に禁止した。
女性役者を失った興行主たちは、代わって元服前の少年たちを中心に据えた一座を編成し、これが若衆歌舞伎として新たな流行を生み出すこととなった。
「若衆」の持つ意味と男色の熱狂
「若衆」とは、まだ元服を迎えていない、前髪を残した10代の少年を指す言葉である。彼らは女装して艶やかな舞踊を披露したり、軽業などのアクロバティックな芸を見せたりして観客を魅了した。江戸時代初期の社会では、武士階級のみならず町人の間でも男色(衆道)が広く行われており、美少年である若衆役者はたちまち格好の対象となった。
そのため、若衆歌舞伎の実態は、かつての女歌舞伎と同様に売春(陰間)を伴うものであった。観客たちは特定の若衆を贔屓にし、彼らを巡って刃傷沙汰などの暴力事件が頻発するなど、再び都市の治安を脅かす深刻な社会問題へと発展していった。
承応の弾圧と野郎歌舞伎への転換
こうした事態を重く見た幕府は、1652年(承応元年)、風俗を乱すとしてついに若衆歌舞伎の全面禁止に踏み切った。このいわゆる「承応の弾圧」によって、歌舞伎という芸能自体が存続の危機に立たされた。
興行主や役者たちは幕府に対して必死の嘆願を行い、厳しい条件と引き換えに興行の再開を許された。その条件とは、若衆の象徴である前髪を剃り落として成年男子の髪型(野郎頭)にすること、そして官能的な舞踊を廃し、「物真似狂言づくし」と呼ばれる筋立てのある健全な演劇を行うことであった。こうして成立したのが野郎歌舞伎である。容姿の美しさで観客を惹きつけることができなくなった役者たちは、必然的に演技力を磨くことになり、これが結果的に歌舞伎を単なる見世物から高度な演劇芸術へと昇華させる歴史的契機となったのである。