南町奉行所・北町奉行所 (みなみまちぶぎょうしょ・きたまちぶぎょうしょ)
【概説】
江戸の町政、司法、警察などを一手に担った町奉行が執務を行った行政・司法機関。南北2つの奉行所が月番制と呼ばれる交代勤務体制をとり、世界有数の巨大都市であった江戸の秩序維持において中枢的な役割を果たした。
江戸町奉行の組織と南北2体制の確立
江戸の町奉行は、寺社奉行、勘定奉行と並ぶ幕府の「三奉行」の一つであり、老中の支配下で江戸の町人地における行政、司法、警察(治安維持)、消防などを統括した。当初は1名または複数名が任命されるなど流動的であったが、1702年(元禄15年)以降は「南町奉行」「北町奉行」の2名による南北2体制が定着した(享保期の一時期には「中町奉行」が置かれて3人制となったこともあるが、短期間で廃止された)。
それぞれの奉行所には、与力(よりき)や同心(どうしん)と呼ばれる配下の役人が所属し、実際の捜査や裁判の事務、町割の管理、市場の監視などを行った。なお、町奉行が支配した地域は「町人地」に限られており、武家地(武家火消などの例外を除く)は管轄外、寺社地は寺社奉行の管轄という棲み分けがなされていた。
効率的な都市管理を実現した「月番制」
南北の奉行所は、1ヶ月ごとに交代で当番を務める月番制(つきばんせい)によって運営された。当番である「御用番(月番)」の奉行所は、新規の訴訟の受理や、その月に突発した事件の捜査・処理など、表立った業務を一身に担った。
一方、非番である「非番(控月)」の奉行所は完全に休業するわけではなく、前の月に受理して未解決となっている継続案件の処理や、判決の下準備、内政業務などを行っていた。この合理的な役割分担により、膨大な人口を抱える江戸の実務を、限られた人員で滞りなく処理することが可能となった。
奉行所の変遷と有名な町奉行
南町奉行所と北町奉行所は、その名称が示す通りの固定された場所にあったわけではなく、時代によって移転を繰り返した。幕末期における北町奉行所は呉服橋門内(現在の東京駅八重洲口付近)、南町奉行所は数寄屋橋門内(現在の有楽町駅付近)に置かれていた。
歴代の町奉行には、享保の改革を支えて町火消の組織化などに尽力した大岡忠相(おおおかただすけ)(南町奉行)や、天保の改革期に過酷な緊縮財政に抵抗して町民の支持を得た遠山景元(とおやまかげもと)(北町奉行、のちに南町奉行)など、後世の創作や時代劇のモデルとなる官僚たちが名を連ねており、彼らの卓越した実務能力が幕藩体制の基盤を支えていた。