関八州 (かんはっしゅう)
【概説】
江戸幕府の政治的・経済的基盤となった関東地方の8カ国の総称。相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野を指し、近世の徳川将軍家による支配の中核地域を構成した。
関八州の地理的範囲と歴史的背景
関八州とは、古代の東海道に属する常陸・下総・上総・安房・武蔵・相模の6国と、東山道に属する上野・下野の2国を合わせた、現在の関東地方(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・茨城県・栃木県・群馬県)にほぼ相当する地域である。古代に関所(三関)の東側を「関東」と呼んだことに由来し、中世以降は「坂東」とも称された。
歴史的には、源頼朝による鎌倉幕府の創設や、室町時代の鎌倉府の設置など、武家政権にとって関東は独自の政治的まとまりを持つ地域であった。戦国時代には、小田原を本拠地とした戦国大名の後北条氏がこれら8カ国の大半を勢力下に収めたことで、地域概念としての「関八州」が明確に定着していくこととなった。
徳川氏の江戸入国と領国支配
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると、徳川家康は三河や駿河などの旧領から関八州へと国替えを命じられた。家康は江戸城を本拠地と定め、関八州の支配体制の再編に着手する。
1603年に江戸幕府が開かれると、関八州は「将軍家のお膝元」として極めて重要な位置を占めるようになった。この地域には、幕府の直轄地(天領)や旗本・御家人の知行地、さらには譜代大名の領地が複雑に入り交じる、モザイク状の支配構造(領地錯綜)が形成された。これは外様大名の配置を排除し、幕府の権力基盤を防衛するための軍事的・政治的配慮によるものである。
治安の悪化と「八州廻り」の創設
江戸時代後期になると、農村の荒廃や、それに伴う無宿(浮浪者)や博徒の横行が深刻な社会問題となった。関八州は多くの領主によって細分化されて統治されていたため、犯罪者が領地をまたいで逃亡すると、従来の領主単位の警察力では追跡・検挙が極めて困難であった。
こうした事態に対処するため、幕府は文化2年(1805年)、勘定奉行の配下に関東取締出役(通称「八州廻り」)を設置した。彼らは自領・他領を問わず、関八州全域を巡回して治安維持にあたる広域捜査権を持っていた。また、これに協力する組織として、領主の枠を超えて農村同士が団結する改革組合村も結成された。これらの施策は、関八州という地域を一体のものとして統治・管理しようとする、幕府の広域行政への転換を示すものであった。