下田奉行 (しもだぶぎょう)
1616〜1625年、1854〜1859年
【概説】
江戸幕府が伊豆国下田に配した遠国奉行の一つ。江戸へ流入する物資の監視や海上警備、さらには幕末の開国期における対外交渉を担った職制である。
江戸初期における「海の関所」としての創設
江戸幕府を開いた徳川氏にとって、政治の中心地である江戸の防衛と経済統制は最優先課題であった。元和2年(1616年)、幕府は海上交通の要衝である伊豆国下田(現・静岡県下田市)に下田奉行を設置し、江戸へ向かうすべての船舶の検問(津関)や沿岸警備にあたらせた。これは「入鉄砲に出女」で知られる陸上の関所と同様に、江戸への武器流入を防ぎ、西国大名に対する警戒を強める「海の関所」としての役割を持っていた。しかし寛永2年(1625年)、船の監視効率向上と江戸湾防備の強化を目的に、奉行所が三浦半島の浦賀(現・神奈川県横須賀市)に移転(浦賀奉行の誕生)したことで、最初の下田奉行は廃止されることとなった。
幕末の開国と下田奉行の再置
それから200年以上の時を経た幕末、下田奉行は再び歴史の表舞台に登場する。嘉永7年(1854年)に締結された日米和親条約により、下田が箱館(函館)とともに開港場に指定されたためである。幕府は同年、外交交渉や外国人居留地の管理、開港場の治安維持を目的として下田奉行を再設置した。初代奉行には、開明派官僚である伊沢政義や都筑国臣らが任じられた。彼らは、下田の玉泉寺に領事館を構えたアメリカ総領事ハリスとの間で、日米修好通商条約の締結に向けた極めて困難な外交交渉の窓口を務めた。その後、安政6年(1859年)に神奈川(横浜)が開港されると、外交の拠点は神奈川奉行へと移り、下田奉行はその役目を終えて再び廃止された。