明正天皇 (めいしょうてんのう)
【概説】
江戸時代前期に即位した第109代天皇であり、奈良時代の称徳天皇以来、約860年ぶりに誕生した女性天皇。父である後水尾天皇の突然の譲位により、わずか7歳で即位した。徳川将軍家の血を引く初の天皇であり、江戸幕府と朝廷との緊張関係が生み出した象徴的な存在である。
紫衣事件と突如行われた譲位
明正天皇の即位には、江戸幕府と朝廷との激しい政治的対立が背景にあった。父である後水尾天皇は、幕府が定めた「禁中並公家諸法度」による朝廷統制や、朝廷の伝統的な権利であった紫衣(高僧の格式を示す紫色の法衣)の勅許を幕府が無効化した紫衣事件(1629年)をめぐり、幕府と深く対立していた。
1629(寛永6)年、幕府への強い抗議の意思を示すため、後水尾天皇は幕府への事前通告なしに突如として譲位を断行した。これにより、当時わずか7歳であった皇女の女一宮(興子内親王)が、明正天皇として即位することとなった。古代の称徳天皇(道鏡の台頭などで知られる)以来、実に859年ぶりの女性天皇の誕生であった。
徳川将軍家との血縁関係
明正天皇の母は、2代将軍徳川秀忠の娘であり、3代将軍徳川家光の妹にあたる徳川和子(東福門院)である。このため、明正天皇は徳川将軍家の血を直接引く初めての天皇となった。
後水尾天皇の突然の譲位は幕府にとって不意打ちであったが、誕生した新天皇が徳川家ゆかりの人物であったことは、結果として幕府にとって好都合な側面もあった。家光は女帝の即位を全面的に支援し、即位式を挙行するための資金提供や、朝廷の経済基盤である皇室領の整備を行うなどして、朝廷における徳川の権威をいっそう高めることに努めた。
譲位後の動向と女帝の歴史的役割
明正天皇の在位期間は14年間に及んだが、幼少での即位であったこと、また女性天皇には配偶者を持つことが禁じられていた慣例から、政治的実権は事実上、院政を敷いた父・後水尾上皇が握っていた。1643(寛永20)年、異母弟の紹仁親王(後光明天皇)に譲位し、その後は太上天皇(上皇)として余生を送った。元禄9(1696)年に73歳で崩御するまで、江戸幕府と朝廷の橋渡し役を担い続けた。
明正天皇の即位は、男系男子による皇位継承が原則とされる中で行われた例外的な措置であり、江戸幕府の朝廷統制に端を発する政治的な妥協の産物であった。しかし、この前例がつくられたことにより、のちに江戸中期(18世紀後半)にもう一人の女性天皇である後桜町天皇が即位する下地が形成されることとなった。