後桜町天皇 (ごさくらまちてんのう)
【概説】
江戸時代中期から後期にかけて在位した第119代天皇であり、日本歴史上最後の女性天皇。桃園天皇の急逝に伴い、幼少の遺児が成長するまでの中継ぎとして即位した。
皇位継承危機による即位と最後の女性天皇
後桜町天皇は、桜町天皇の第二皇女として生まれ、名は智子(としこ)といった。宝暦12年(1762年)、弟である桃園天皇が22歳で急逝した際、遺児の英仁親王(のちの後桃園天皇)がわずか5歳であったため、皇位の空白や幼少の天皇誕生による政情不安を避けるための中継ぎとして、23歳で即位することとなった。これは江戸時代初期の明正天皇以来、119年ぶりの女帝の誕生であり、古代の推古天皇から始まった日本の歴史において最後の女性天皇(第8代10代)となった。
在位は約8年に及び、明和8年(1771年)に成長した英仁親王(後桃園天皇)に譲位した。彼女の即位は、男系男子による継承を原則としつつも、皇位の安定的な継承が脅かされた際の非常措置として、女性天皇という歴史的先例が有効に機能した事例である。
退位後の「国母」としての政治的影響力と尊号一件
譲位して上皇(後桜町院)となった後も、彼女は朝廷の内外から深い敬意を集め、事実上の「国母」として強い政治的影響力を持ち続けた。後桃園天皇が若くして後嗣なく崩御した際には、伏見宮家や閑院宮家からの皇位継承を速やかに取り決め、閑院宮家から光格天皇(明治天皇の曾祖父)を迎えることで皇統の断絶を防いだ。
特に寛政年間、光格天皇が実父である閑院宮典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとし、幕府の老中松平定信らと激しく対立した尊号一件においては、強硬な態度を崩さない天皇を宥めつつ、幕府との折衝にあたって調停に尽力した。これにより、朝廷と幕府の決定的な対立(朝幕関係の破綻)は回避され、朝廷の権威と安定が保たれた。彼女は学問や歌道にも優れ、文化的な指導者としても朝廷を精神的に支え続けた。