天草
【概説】
現在の熊本県南西部に位置する天草諸島を中心とした地域。戦国時代から安土桃山時代にかけてキリスト教の布教が進み、独自のキリシタン文化が栄えた。江戸時代初期に唐津藩による過酷な収奪とキリシタン弾圧を受け、1637(寛永14)年に島原の領民とともに大規模な一揆(島原・天草一揆)を起こしたことで、江戸幕府のキリスト教禁制と鎖国体制の強化に決定的な影響を与えた。
キリシタン文化が花開いた「天草」
天草は、九州の西シナ海に浮かぶ諸島部を中心とした地域である。戦国時代には天草氏などの国人領主(天草五人衆)が割拠していた。1566年、宣教師ルイス・デ・アルメイダによってキリスト教がもたらされると、領主をはじめ多くの領民が洗礼を受け、キリシタン大名が誕生した。
豊臣秀吉によるバテレン追放令の後もキリスト教信仰は根強く残り、宣教師を育成するためのコレジオ(大神学校)が天草に設置された。また、西洋から活版印刷機が持ち込まれ、「天草版(キリシタン版)」と呼ばれるローマ字綴りの『平家物語』や『伊曽保(イソップ)物語』などが出版されるなど、当時の天草は日本における西洋文化・キリシタン文化の重要な拠点として繁栄を極めていた。
寺沢氏による苛烈な支配と禁教
関ヶ原の戦い後、天草は唐津藩主・寺沢広高の領地となった。寺沢氏は天草の農業生産力を実際の実力よりもはるかに高い約4万2千石と過大に算定し、領民に対して極めて過酷な年貢の取り立てを行った。さらに、江戸幕府が発布した禁教令に従い、激しいキリシタン弾圧を実施した。
過酷な経済的搾取と、精神的な拠り所である信仰への弾圧は、領民を極限の状況まで追い詰めた。数年にわたる凶作や飢饉が重なったこともあり、天草の農民たちの間には幕府や領主に対する深い絶望と不満が鬱積していった。これは、海を隔てた隣接地の島原(松倉氏の領地)でも全く同様の状況であった。
島原・天草一揆の勃発と歴史的意義
1637(寛永14)年、ついに限界に達した天草の領民は、島原の領民とともに蜂起した。これが島原・天草一揆(島原の乱)である。一揆勢は、カリスマ的な指導者であった天草四郎(益田時貞)を総大将に仰ぎ、およそ3万7千人もの規模に膨れ上がった。天草の一揆勢は代官所や富岡城を攻撃したのち、海を渡って島原勢と合流し、廃城となっていた原城に立て籠もって幕府軍と激しい攻防を繰り広げた。
この一揆は単なる農民の蜂起ではなく、かつてのキリシタン大名の遺臣らが実質的な指揮を執る「戦争」であった。幕府は老中・松平信綱を総大将として派遣し、オランダ船からの砲撃支援まで受けて、翌1638年にようやく一揆を鎮圧し、立て籠もった老若男女をほぼ全滅させた。この大事件は、江戸幕府にとってキリスト教の結束力と脅威を決定づけるものとなり、翌1639年のポルトガル船来航禁止や絵踏の徹底など、いわゆる鎖国体制の完成へとつながる重要な歴史的転換点となった。
一揆後の復興と幕府直轄地への移行
一揆の鎮圧後、唐津藩主の寺沢堅高(広高の子)は一揆勃発の責任を問われて天草の領地を没収され、天草は幕府の直轄地(天領)となった。度重なる戦乱と一揆勢の全滅により、天草は人口が激減し、荒廃を極めていた。
この惨状を立て直すため、初代天草代官として赴任した鈴木重成は、各地から農民を移住させて農業の再建を図るとともに、一揆の根本原因であった「実態に合わない過大な石高」の半減を幕府に繰り返し訴え出た。重成は自らの命を懸けて減税を嘆願したと伝えられ、彼の死後、その悲願は実を結んで石高は半分の2万1千石に改められた。年貢負担が適正化されたことにより、悲劇の舞台となった天草は徐々に復興への道を歩み始めることとなったのである。