原城跡 (はらじょうあと)
【概説】
肥前国島原半島南部に位置し、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱において一揆軍が籠城した城跡。天草四郎を総大将とするキリシタンや領民ら約3万7000人が立て籠もり、江戸幕府軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた。乱の終結後に幕府によって徹底的に破壊されたが、現在は世界文化遺産に登録され、日本のキリスト教史における重要な遺構となっている。
有馬氏による築城から島原の乱の舞台へ
原城は慶長9年(1604年)、キリシタン大名であった有馬晴信によって日野江城の支城として築かれた。有明海に突き出た丘陵地に位置し、三方を海に囲まれた天然の要害であった。しかし、元和4年(1618年)に松倉重政が島原藩主となると、新たに島原城が建設されたため、原城は一国一城令の影響もあり廃城となった。
その後、松倉氏によるキリシタンへの過酷な弾圧と、飢饉に苦しむ農民らへの苛政が限界に達し、寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発する。島原および天草の一揆軍は、廃城となって久しかった原城跡を修復して拠点とし、天草四郎(益田時貞)を総大将に戴いて約3ヶ月に及ぶ籠城戦を開始した。
徹底的な籠城戦と幕府の対応
一揆軍は堅固な原城に立て籠もり、幕府が派遣した上使の板倉重昌率いる軍勢を二度にわたって撃退した。この戦闘で重昌は戦死し、幕府は老中である松平信綱を新たな総大将として増援を送り込んだ。信綱は力攻めを避け、城を完全に包囲して兵糧攻め(飢餓作戦)を行う方針に切り替えた。
この際、幕府は平戸のオランダ商館に対して支援を要求し、商館長クーケバッケルは船から原城へ向けて艦砲射撃を行った。これは幕府がキリスト教一揆を制圧するために、同じキリスト教国(プロテスタント)であるオランダを利用した象徴的な出来事であり、後の「鎖国」体制の形成へとつながる外交的契機となった。最終的に、食料や弾薬が尽きかけた寛永15年(1638年)2月末、幕府軍の総攻撃によって原城は落城し、立て籠もった人々は全滅させられた。
「破城」による隠蔽と近年の世界遺産登録
乱の平定後、幕府は再び一揆の拠点として利用されることを恐れ、原城の石垣や建物の遺構をことごとく崩し、地中に埋める「破城(はじょう)」を行った。この徹底的な破壊と埋め立てにより、原城は歴史の表舞台から消え去り、長い間、畑地として利用されることとなった。
しかし、近年の発掘調査によって、地中から崩された石垣のほか、一揆軍が密かに作成した鉛の十字架やメダイ、さらには凄惨な戦闘を物語る無数の人骨が出土し、当時の歴史的現実が鮮明に蘇った。これらの考古学的価値が評価され、平成30年(2018年)には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録され、世界的な歴史遺産として保護されている。