松平信綱 (まつだいらのぶつな)
【概説】
江戸時代初期に活躍した幕府の老中。3代将軍徳川家光・4代将軍徳川家綱の2代にわたり側近として仕え、島原の乱の鎮圧や幕府諸制度の整備を主導した。「知恵伊豆」の異名を持ち、武断政治から文治政治への過渡期において幕藩体制の基礎固めに多大な貢献を果たした重臣である。
「知恵伊豆」の台頭と将軍家光の側近政治
松平信綱は、徳川家康の家臣であった大河内久綱の長男として生まれ、後に叔父の松平(大河内)信雅の養子となった。幼少期から、後に3代将軍となる徳川家光の小姓として仕え、その聡明さから絶大な信頼を獲得した。家光が将軍に就任すると急速に出世を遂げ、1635年には幕政の要職である老中へと抜擢された。彼の切れ味鋭い智謀と卓越した事務処理能力は、老中たちの間でもひときわ際立っており、官職である伊豆守(いずのかみ)に引っ掛けて「知恵伊豆」と称され、家光期における側近主導型政治の中心人物として幕政を牽引した。
島原の乱の平定と対外政策の転換
信綱がその政治的手腕を最も大きく発揮したのが、1637年に勃発した島原の乱の平定である。現地に赴いた初代上使の板倉重昌が一揆軍の抵抗を崩せずに戦死したため、信綱は後任の上使(総大将)として現地へ急行した。信綱は強硬な力攻めによる自軍の消耗を避けるため、一揆軍が籠城する原城を陸海から完全包囲する兵糧攻めを敢行した。この際、長崎のオランダ商館長に対して協力を要請し、オランダ船から海上で大砲を射撃させるなど、目的達成のために極めて合理主義的な戦術を展開して乱を終息させた。この大規模な反乱を教訓として、幕府はキリスト教禁教政策をより一層徹底させ、1639年のポルトガル船来航禁止によるいわゆる「鎖国」体制の完成へと政策を舵切りすることになった。
文治政治への移行と幕藩体制の基礎固め
信綱の功績は軍事的な鎮圧に留まらず、平時における国家統治の制度設計にも及んでいる。家光の治世下では、1635年に改定された武家諸法度(寛永令)において、参勤交代の制度化や大船建造の禁止などの重要法令の制定に関わった。家光の急死後に幼少の4代将軍徳川家綱が就任すると、幕政を揺るがした慶安の変(由井正雪の乱)を未然に防ぎ、迅速に事態を収拾した。この乱の後、信綱は保科正之らとともに、浪人の発生を防ぐための末期養子の禁の緩和や殉死の禁止など、これまでの武力による統制(武断政治)から、学問や道徳、社会の安定を重んじる文治政治への政策転換を強力に進めた。また、領地である武蔵国川越藩の藩政においても、野火止用水の開削や新田開発、川越街道の整備を進めるなど、民政家としても大きな足跡を残した。