イギリス(江戸時代における関係)
【概説】
江戸時代初期において、江戸幕府から朱印状を得て平戸に商館を設け、日本との貿易を行ったヨーロッパの国家。しかし、先行するオランダとの激しい貿易競争に敗れ、1623年(元和9年)に自主的に商館を閉鎖して日本から撤退した。
ウィリアム・アダムスの来航と日英関係の幕開け
イギリスと日本の直接的な関係は、1600年(慶長5年)のオランダ船リーフデ号の豊後国(現在の大分県)への漂着に遡る。この船に水先案内人として乗船していたのが、イギリス人のウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)であった。徳川家康はアダムスの造船技術や航海術、世界情勢に関する深い知識を高く評価し、彼を幕府の外交顧問として重用した。アダムスは相模国三浦郡に領地を与えられて旗本として待遇され、彼の存在はのちのイギリス東インド会社による日本での貿易拠点設立において、極めて有利な足がかりとなった。
平戸商館の開設とジョン・セーリスの来航
1613年(慶長18年)、イギリス東インド会社の司令官ジョン・セーリスがクローブ号で肥前国平戸(現在の長崎県)に来航した。セーリスはアダムスの仲介によって駿府で大御所・徳川家康に謁見し、国王ジェームズ1世の国書を呈上した。その結果、日本国内における居住と営業を許可する朱印状を獲得し、平戸にイギリス商館を開設することに成功した。初代商館長(カピタン)にはリチャード・コックスが就任し、江戸や大坂などにも出張所を設けて幅広く交易を展開しようと試みた。
オランダとの激しい競争と経営不振
しかし、イギリスの日本貿易は当初から困難を極めた。最大の障壁となったのは、同じ新教国(プロテスタント)でありながら、すでに1609年に平戸に商館を構え、日本市場に食い込んでいたオランダの存在であった。オランダ東インド会社は豊富な資金力と強力な海上戦力を持ち、日本市場で需要の高かった中国産の生糸や絹織物を安定的に供給することができた。一方、イギリスは自国製の毛織物を日本で売り込もうとしたが、温暖な気候の日本では需要が乏しく、主力商品の販売不振が商館の経営を大きく圧迫することとなった。
商館の閉鎖と東アジア海域からの撤退
日本国内での不採算に加え、東南アジアにおける英蘭の覇権争いも決定的な影響を及ぼした。1623年、モルッカ諸島のアンボン島でオランダの総督がイギリス商館員らを処刑するアンボイナ事件が発生した。これによりイギリス東インド会社は香辛料貿易の拠点であった東南アジアからの後退を余儀なくされ、経営の重心をインドへと転換した。この東アジア事業の見直しの余波を受け、同1623年(元和9年)、イギリスは極東の不採算拠点であった平戸商館の閉鎖を決定し、日本から自主的に撤退した。
イギリス撤退の歴史的意義とその後の影響
イギリスの撤退は、日本の対外政策において大きな転換点の一つとなった。イギリスが去った翌1624年には幕府がスペイン船の来航を禁止し、ヨーロッパの貿易相手国はオランダとポルトガルのみに絞られた。その後、1639年のポルトガル船来航禁止により、いわゆる「鎖国」体制が完成することになる。もしイギリスが日本市場でオランダと併存し続けていれば、江戸幕府の対外政策は異なる展開を見せていた可能性がある。なお、イギリスが再び日本と公式な関係を結ぶのは、商館閉鎖から200年以上が経過した幕末の1854年(嘉永7年)、日英和親条約の締結を待たねばならなかった。