ウィリアム=アダムズ(三浦按針) (みうらあんじん)
【概説】
1600年に豊後国へ漂着したオランダ船リーフデ号のイギリス人水先案内人。徳川家康の厚い信任を得て外交・貿易顧問として活躍し、三浦按針の日本名と領地を与えられた。初期江戸幕府の対外政策や、イギリス・オランダとの交易開始に多大な貢献を果たした。
リーフデ号の遭難と日本漂着
ウィリアム=アダムズはイギリス生まれの航海士であったが、オランダのロッテルダムから極東を目指す東インド遠征艦隊に参加した。過酷な航海の末、5隻あった艦隊のうち日本に到達したのはリーフデ号のみであり、1600年(慶長5年)に豊後国(現在の大分県)臼杵湾に漂着した。この時、乗組員の大半は餓死または重病に陥っており、生存者の中には後に同じく幕府の外交顧問となるオランダ人ヤン・ヨーステンも含まれていた。当時、日本において布教と貿易の主導権を握っていたポルトガル人のカトリック宣教師らは、新教国(プロテスタント)の出身である彼らを「海賊」として処刑するよう要求したが、五大老の筆頭であった徳川家康は自ら彼らを引見することを選択した。
徳川家康の信任と「三浦按針」の誕生
大坂城などで家康に謁見したアダムズは、ヨーロッパの国際情勢、航海術、天文学、数学などを理路整然と説明し、家康の強い関心と厚い信任を勝ち取った。アダムズの知識は、家康がカトリック国(スペイン・ポルトガル)とプロテスタント国(イギリス・オランダ)の対立構図を正確に把握し、宗教布教を伴わない純粋な貿易相手として後者を位置づける上で極めて重要な役割を果たした。
アダムズは帰国を望んだものの許されず、家康の命令で伊東(現在の静岡県)にて西洋式の帆船(ガレオン船)を建造するなどの功績を挙げた。これにより、彼は相模国三浦郡逸見(へみ)に250石の領地を与えられ、異国人でありながら旗本として取り立てられた。水先案内人を意味する「按針」と領地の地名から、三浦按針という日本名を与えられ、帯刀も許されたのである。
イギリス・オランダとの貿易開始への貢献
家康の外交顧問となったアダムズは、幕府の対外政策において不可欠な存在となった。彼の尽力と助言により、1609年にはオランダ船が平戸に入港して通商許可を得て、オランダ商館が設立された。さらに1613年にはイギリス国王の使節であるジョン・セーリスが来日し、アダムズの仲介によって家康から朱印状を獲得し、平戸にイギリス商館を開設した。
このように、アダムズはポルトガル・スペインが独占していた南蛮貿易の寡占状態を打破し、オランダ・イギリスとの紅毛貿易を切り開く立役者となった。また、彼自身も朱印状を与えられ、朱印船貿易の担い手としてシャム(現在のタイ)や交趾(ベトナム)など東南アジアへの航海も行った。
家康の死と晩年
1616年(元和2年)に最大の庇護者であった徳川家康が死去すると、アダムズの運命は暗転する。第2代将軍・徳川秀忠はキリスト教に対する警戒を強め、禁教令の強化とともに、ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎のみに制限する貿易統制策を打ち出した。外交顧問としての影響力を著しく削がれたアダムズは、イギリス商館長リチャード・コックスらと同国人でありながら衝突することもあったが、平戸商館の運営や貿易の実務に身を捧げた。
1620年(元和6年)、帰郷の念を抱きながらも平戸で病死した。その後、香料諸島におけるオランダとの競争に敗れたイギリスは、1623年のアンボイナ事件の影響もあり平戸商館を閉鎖して日本から撤退することとなり、アダムズが築いた日英関係は一時途絶することとなった。しかし、彼が日本にもたらした西洋の知識や、初期江戸幕府の外交政策の転換に与えた影響の歴史的意義は非常に大きく、今日においても高く評価されている。