支倉常長 (はせくら つねなが)
【概説】
仙台藩主・伊達政宗の命を受け、慶長遣欧使節の正使としてサン・ファン・バウティスタ号でヨーロッパへ渡った江戸時代初期の武将。スペイン国王やローマ教皇に謁見して通商交渉に尽力するも、日本の禁教政策の影響で目的を果たせず、歴史の波に翻弄された人物である。
伊達政宗の野望と慶長遣欧使節の結成
支倉常長は、伊達氏の家臣として中堅クラスの武将であったが、主君・伊達政宗の壮大な外交構想によってその運命を大きく変えることになる。17世紀初頭、徳川家康がキリスト教を黙認しつつ南蛮貿易を奨励していた時期、政宗は自領である仙台藩と、スペイン領メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)との直接貿易を画策した。この背景には、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロの強い働きかけがあった。
政宗は幕府の承認を得た上で、仙台領内でスペインの造船技術を用いたガレオン船サン・ファン・バウティスタ号を建造させた。1613年、常長はソテロとともに正使に任命され、総勢180名余りの使節団を率いて月の浦(現在の宮城県石巻市)から太平洋へと船出した。これが慶長遣欧使節である。
太平洋・大西洋の横断とヨーロッパでの歓待
使節団は太平洋を横断してメキシコのアカプルコに到着した後、陸路で大西洋側へ移動し、別の船でスペインへと渡った。1615年、常長はスペイン国王フェリペ3世に謁見し、政宗の親書を手渡して通商を求めた。さらにマドリードで洗礼を受け、「ドン・フェリペ・フランシスコ」という洗礼名を与えられている。
その後、一行はイタリアへ向かい、ローマで教皇パウルス5世に謁見を果たした。常長は教皇からローマ市民権を授与され、その肖像画や記録は現在もバチカンやイタリア各地に残されている。日本人として太平洋と大西洋を横断し、ヨーロッパの国家的・宗教的頂点と直接外交交渉を行った常長の足跡は、当時の日本外交史において特筆すべき壮挙であった。
禁教令の壁と失意の帰国
ヨーロッパ各地で熱烈な歓迎を受けた常長であったが、使節の本来の目的である通商協定の締結や宣教師の派遣要請は、次第に困難な状況へと追い込まれていく。最大の要因は、日本国内の情勢変化であった。使節が出発した直後の1614年、江戸幕府は全国に禁教令(キリスト教禁止令)を発布し、宣教師の追放やキリシタンの弾圧を開始していたのである。
このキリシタン弾圧の事実はヨーロッパにも伝わり、スペイン国王やローマ教皇の態度は硬化した。結果として具体的な支援や通商の許可を得ることはできず、交渉は事実上の頓挫に終わった。常長らはフィリピンのマニラを経由し、1620年に7年間の長い旅路を経て日本へ帰国した。しかし、帰国した日本は激しいキリシタン弾圧の最中であり、政宗も幕府への恭順を示すため、使節の成果を封印せざるを得なかった。常長は表舞台から姿を消し、失意のうちに1622年に病没した。
支倉常長の歴史的意義と再評価
帰国後の状況により、常長や慶長遣欧使節の事績は江戸時代を通じて歴史の闇に埋もれていた。しかし、明治時代に岩倉使節団がヴェネツィアなどを訪問した際、現地で常長の署名が入った文書などが発見され、日本国内でもその存在が再評価されることとなった。
彼が持ち帰った教皇の肖像画やローマ市民権証書などの品々は「慶長遣欧使節関係資料」として国宝に指定されており、2013年にはユネスコ記憶遺産(世界の記憶)にも登録された。支倉常長は、鎖国体制が固まる直前の日本において、広い世界を見据え、命懸けで大洋を渡った国際人として、日本の外交史上極めて重要な位置を占めている。