唐人屋敷 (とうじんやしき)
【概説】
江戸時代の長崎に設置された、清国(中国)商人たちの制限居住区。増大する清船の来航に伴う密貿易の防止や、キリスト教の流入警戒を目的に、江戸幕府によって建設された施設。
「展海令」と唐人屋敷の設置背景
江戸幕府は寛永期(1630年代)にいわゆる「鎖国」体制を完成させたが、中国(明・清)やオランダとの交易は長崎において継続された。当初、長崎に来航した唐人(中国人)たちは特定の居住区に隔離されることなく、長崎市中に雑居し、町民と比較的自由に交流・交易を行っていた。
しかし、1684年に清朝が台湾の鄭氏勢力を平定し、海禁(海外渡航の禁止)を解く「展海令」を発布したことで状況は一変する。これにより、長崎へ来航する清船(唐船)および中国人が急激に増加し、貿易額が激増した。これに伴い、幕府が公認しない密貿易(抜け荷)が横行し、同時に貿易決済のための銅や銀の海外流出が深刻な問題となった。さらに、中国本国を経由したキリスト教の国内流入に対する警戒感も高まった。これらの事態に対処するため、幕府は1689年(元禄2年)、長崎の十善寺郷(現在の館内町)に唐人屋敷を建設し、唐人を一括して収容・管理する方針をとった。
厳重な隔離と内部における唐人の生活
唐人屋敷は、周囲を約2メートルの堀や二重の竹垣で囲まれた、広さ約9400坪に及ぶ広大な敷地であった。出入り口は「大門」一箇所に限定され、周囲には「検使」や「乙名(おとな)」といった役人が配置され、不審者の侵入や唐人の無断外出を厳重に監視していた。
屋敷の内部には、来航した船員や商人が寝起きするための長屋(二階建ての共同住宅)が数十棟立ち並び、最盛期には2000人から3000人もの人々が暮らしていたとされる。また、敷地内には航海の安全を祈願する天后堂(媽祖廟)や、観音堂、関帝堂などの廟宇(中国風の寺院)が建てられ、中国の伝統的な景観や信仰がそのまま維持されていた。原則として唐人の外出は禁止されていたが、実務を担う「唐通事」や特定の商人に加え、長崎・丸山の遊女など、限られた日本人のみが出入りを許され、限定的な文化交流の場ともなっていた。
出島との比較と幕府の対外統制政策
唐人屋敷は、オランダ人を収容した出島とよく比較される。出島が1636年に完成し、キリスト教国であるポルトガル人やオランダ人を厳格に監視・管理するために造られたのに対し、唐人屋敷の設置は半世紀以上遅い1689年である。これは、幕府が中国(非キリスト教国)に対しては比較的緩やかな態度を取っていたものの、経済的な統制(密貿易防止と貴金属の流出防止)の必要性に迫られて、オランダ人と同様の隔離政策を適用せざるを得なくなった歴史的経緯を示している。
この唐人屋敷による一元管理は、1859年の安政の開国によって制限が事実上撤廃されるまで機能した。その後、1870年の明治政府による正式な閉鎖を経て、唐人屋敷の跡地周辺には多くの華僑が残り、現在の長崎新地中華街へと発展していく基礎を築くこととなった。