日清両属

琉球王国が薩摩藩(日本)の実質的な支配下にありながら、清(中国)へも朝貢を続けていた二重の属国状態を何と呼ぶか。
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
日清戦争(Wikipedia)

日清両属 (にっしんりょうぞく)

1609〜1879年

【概説】
近世の琉球王国が、薩摩藩および江戸幕府の実質的な支配下にありながら、中国の明・清朝とも冊封・朝貢関係を維持し続けた二重の帰属状態。日本と中国の双方に臣属した、近世東アジアにおける特異な国際関係を示す外交概念である。

薩摩の侵入と二重支配体制の成立

1609年(慶長14年)、薩摩藩の島津氏が軍勢を率いて琉球に侵攻し、首里城を攻略して国王の尚寧を捕らえた。これにより琉球は薩摩藩の検地を受け、実質的な支配下に組み込まれることとなった。しかし、薩摩藩および江戸幕府は琉球を完全に日本へ同化させることはせず、琉球が伝統的に結んできた中国(明、のちに清)との「冊封」および「朝貢」の関係を継続することを認めた。ここに、実質的に薩摩藩の支配を受けつつ、形式的には中国皇帝の臣下でもあるという、ねじれた二重の主従関係(日清両属)が成立した。

両属関係が維持された背景と経済的・政治的利害

この一見奇妙な「両属」状態が維持されたのは、関係する各勢力にとって大きなメリットがあったからである。当時、江戸幕府は中国と正式な国交を結んでいなかった(海禁・鎖国体制)。そのため、琉球が中国との朝貢貿易を継続することは、薩摩藩にとって中国産の生糸や漢方薬などの貴重な物資を独占的に入手し、莫大な商業利益(琉球貿易)をあげる絶好の手段となった。また、江戸幕府にとっても、琉球から派遣される「慶賀使」や「謝恩使」が江戸に参府する(江戸上り)ことで、将軍の権威が異国にまで及んでいることを国内外に誇示する格好の機会となった。清朝にとっても、自国を中心とする冊封体制(中華秩序)が維持されていることが重要であり、薩摩藩による琉球への介入を暗黙のうちに容認し続けた。

「異国風」の強制と近代における終焉

薩摩藩は、琉球が中国との交易を円滑に行えるよう、琉球の人々に対して日本風の髪型や衣服、言葉を厳しく禁じ、むしろ中国風の「異国らしさ」を保つよう強要した。しかし、明治維新によって近代的な主権国家の形成を目指す日本政府にとって、この曖昧な両属関係は不都合なものとなった。1872年の琉球藩設置を経て、1879年(明治12年)に明治政府は軍事力を背景に「琉球処分」を断行し、沖縄県を設置して日本領へ編入した。これにより、約270年間におよんだ日清両属の歴史は幕を閉じた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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Q. 平清盛の台頭から源平の争乱、鎌倉幕府の成立にかけて長期間院政を行い、武士たちを翻弄して「日本一の大天狗」と呼ばれた法皇は誰か。
Q. 朝日新聞の記者や近衛内閣の嘱託として政府の最高機密に触れ、ソ連の諜報活動に協力したとしてゾルゲ事件で処刑された人物は誰か?
Q. 1879年の琉球処分によって琉球藩が廃止され、新たに設置された県は何か?