一里塚

旅人の目印や休息の場とするため、街道に1里(約4km)ごとに設けられた塚を何と呼ぶか。
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重要度
★★★

一里塚

1604年〜

【概説】
江戸時代、主要な街道において江戸の日本橋を起点とし、1里(約3.9キロメートル)ごとに築かれた土盛りの塚。塚の上には榎や松などが植えられ、旅人の道標や休息所として機能したほか、運賃計算の基準としても重要な役割を果たした。

江戸幕府による交通網整備と一里塚の創設

江戸幕府を開いた徳川家康は、全国支配を確立するために関東から各地へと伸びる交通網の整備に注力した。慶長6年(1601年)の宿駅・伝馬(てんま)制度の創設に続き、慶長9年(1604年)には家康の命を受けた徳川秀忠が、大久保長安(おおくぼながやす)を総奉行として一里塚の築造を開始させた。

江戸の日本橋を起点として、東海道、中山道をはじめとする五街道を中心に、主要な脇街道にも順次整備されていった。全国一律の基準で一里塚を設置することは、幕府の権威を可視化し、中央集権的な全国支配を知らしめる象徴的な意味を持っていた。同時に、大名行列の移動や物資の流通、通信を円滑にするための国家的なインフラ整備事業でもあった。

一里塚の構造と植生

標準的な一里塚は、街道の両脇に向かい合うように一対で築かれ、その規模は5間四方(約9メートル)の土盛りであったとされる。塚が風雨で崩れるのを防ぐため、また旅人に日陰を提供するために、頂上には樹木が植えられた。

植えられた樹木としては榎(エノキ)松(マツ)が圧倒的に多かった。特に榎は、根張りが強固で土砂の流出を防ぐ効果が高く、成長が早いため広範囲に木陰を作りやすいという実用的な理由から広く採用された。また、家康に塚に何の木を植えるか尋ねた際、「余の木(えのき)でよい」と答えたことが広まったという有名な俗説も残されている。

交通社会における役割と歴史的意義

一里塚は、当時の交通社会において多角的な役割を担っていた。第一に、1里(約3.9キロメートル)という距離は徒歩での約1時間の行程に相当し、旅人にとって進行状況を把握するための確実な道標(マイルストーン)となった。参勤交代の大名行列や庶民の旅人たちは、一里塚の木陰で草鞋(わらじ)の紐を結び直し、疲れを癒やす休息の場として大いに活用した。

第二に、一里塚は駄賃(運賃)計算の明確な基準として機能した。馬や駕籠(かご)、荷物持ちの人足(にんそく)を雇う際、一里塚を基準にして料金が定められた。これにより、不当な請求や金銭トラブルが防止され、宿場町間の交通費が制度的に安定した。この交通費用の透明化は、江戸時代の街道交通を飛躍的に発達させ、元禄期以降の庶民の旅行ブーム(伊勢参りや金毘羅参りなど)を根底から支えることとなった。

近代化による消滅と文化財としての保存

明治時代に入ると、近代的な測量技術の導入や交通手段の変化により、一里塚はその実用的な役割を終えた。さらに、鉄道の敷設や道路の舗装・拡張、自動車交通の発達に伴い、交通の妨げになるとして全国の多くの一里塚が切り崩され、姿を消していった。

しかし、現在でも一部の一里塚は当時の面影を残したまま現存している。例えば、東京都板橋区の「志村一里塚」は中山道の両側に一対の塚がほぼ完全な形で残っており、国の史跡に指定されている。これらの一里塚は、江戸時代の精緻な交通政策や庶民の旅の情景、街道の歴史的景観を現代に伝える極めて貴重な文化財として保存・継承されている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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Q. 鎌倉時代に禅僧によって中国から伝えられた、墨一色で描かれ、濃淡や筆の勢いで対象を表現する絵画を何というか?
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