享徳の乱

1454年、鎌倉公方が関東管領を暗殺したことに端を発し、関東地方を応仁の乱に先駆けて約30年の戦乱に陥れた事件は何か?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
享徳の乱(Wikipedia)

享徳の乱 (きょうとくのらん)

1454年〜1483年

【概説】
室町時代中期の1454(享徳3)年、鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を暗殺したことで始まった、約30年に及ぶ関東地方の大乱。室町幕府および上杉氏と、鎌倉公方(後の古河公方)足利氏との対立が全面化し、関東における戦国時代の幕開けとなった歴史的画期である。

乱の背景:鎌倉府の二大巨頭による根深い対立

享徳の乱の遠因は、室町幕府が東国支配のために設置した鎌倉府の内部対立にある。鎌倉府の長である鎌倉公方(足利氏)と、それを補佐する実務トップの関東管領(上杉氏)は、しばしば主導権を巡って衝突していた。1438年の永享の乱において、時の鎌倉公方・足利持氏が室町幕府5代将軍足利義教と関東管領上杉憲実によって滅ぼされたことで、両者の対立は決定的なものとなった。

その後、関東の安定を諮るため、持氏の遺児である足利成氏が鎌倉公方に復権した。しかし、成氏は父を死に追いやった上杉氏への強い敵意を抱き続け、上杉氏もまた成氏への警戒を怠らなかった。こうした一触即発の緊張感のなか、1454(享徳3)年、成氏が関東管領の上杉憲忠(憲実の子)を自邸に誘き寄せて暗殺。これが引き金となり、東国全体を巻き込む「享徳の乱」が勃発した。

「古河公方」と「堀越公方」の分裂

上杉憲忠の暗殺に対し、上杉一族は幕府の支援を得て成氏への反撃を開始した。8代将軍足利義政は、成氏を討伐すべく追討令を出すとともに、独自の鎌倉公方として異母兄の足利政知を関東に派遣した。しかし、政知は成氏側の勢力に阻まれて鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越(現在の静岡県伊豆の国市)に留まることを余儀なくされ、堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれるようになった。

一方、幕府・上杉連合軍に鎌倉を追われた足利成氏は、自派の武士が多く拠る下総の古河(現在の茨城県古河市)に本拠を移し、古河公方(こがくぼう)と称して抵抗を続けた。これにより、関東の最高権威である「鎌倉公方」は、古河公方と堀越公方へと分裂し、それぞれの背後に控える国人領主たちを巻き込んで泥沼の内乱へと突入していった。

三十年に及ぶ戦乱の終結と、関東戦国時代への移行

この乱は、利根川を境に関東地方を東西に二分する長期戦となった。東側の古河公方派(成氏および千葉氏、小山氏など)と、西側の幕府・上杉・堀越公方派(山内上杉氏、扇谷上杉氏など)が対峙し、戦況は膠着した。この長引く戦乱のなかで、上杉氏の家臣である太田道灌が江戸城を築城するなど、独自の勢力を伸ばす国人や守護代が台頭し、旧来の支配秩序は崩壊していった。

1467年に京都で応仁の乱が勃発すると、幕府は関東への介入を維持できなくなり、乱の終結を模索し始めた。最終的に1483(文明14)年、古河公方・足利成氏と室町幕府および上杉氏との間で和議が成立(都鄙合体:とひがったい)。成氏の公方としての地位が正式に認められる形で、約30年に及んだ享徳の乱は終結した。しかし、この乱によって関東の守護や国人の自立化は決定的なものとなり、京都よりも10年以上早く幕を開けた「関東の戦国時代」は、その後、北条早雲(伊勢宗瑞)の登場によって新たな局面へと進むこととなる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

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