韮山
【概説】
静岡県伊豆の国市(旧伊豆国)に位置し、中世末期から近代移行期にかけて東国政治・軍事の要衝となった地名。戦国大名後北条氏の祖である北条早雲が伊豆平定後に韮山城を築いて本拠としたほか、江戸時代には周辺の幕府直轄領を支配する代官所が置かれた歴史を持つ。
戦国時代の幕開けと韮山城の築城
室町時代後期の1493(明応2)年、駿河の今川氏を背景に実力を行使した伊勢宗瑞(のちの北条早雲)は、伊豆の堀越公方であった足利茶々丸を襲撃して滅ぼし、伊豆国を平定した。この事件は、室町幕府の権威が失墜した東国における下剋上の先駆であり、実質的な戦国時代の幕開けを象徴する出来事とされる。早雲が伊豆支配の本拠地として、天城山系から伸びる堅固な丘陵に築いた平山城が韮山城である。早雲は後に相模国の小田原城を奪取して進出するが、生涯の多くをこの韮山城で過ごし、分国法「早雲寺殿二十一箇条」を制定するなど、後北条氏による領国支配の基礎をここで固めた。
小田原征伐における防衛戦と廃城
後北条氏の本拠が小田原城へと移った後も、韮山城は領国の西側を守る最重要の支城として維持された。1590(天正18)年、天下統一を進める豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、韮山城は豊臣方の東海道進撃を阻むための巨大な障壁となった。城主の北条氏規(北条氏政の弟)は、織田信雄、細川忠興、福島正則ら率いる4万名を超える豊臣方の大軍に対し、わずか約3600名の守備兵で籠城。約3ヶ月にわたって猛攻を耐え抜き、本城である小田原城よりも長く持ちこたえた。最終的には徳川家康らの説得を受けて降伏・開城したが、この激戦は韮山城の防御力の高さを天下に証明することとなった。その後、徳川家康の関東入封に伴って韮山城は廃城となった。
江戸時代の幕領支配と江川氏の近代化事業
江戸時代に入ると、韮山には伊豆をはじめ駿河・甲斐・相模・武蔵などの幕府直轄領(天領)を広く管轄する韮山代官所が置かれ、政治・行政の中心地へと変貌した。代官は世襲の江川氏が務め、特に幕末期の代官・江川英龍(太郎左衛門)は名代官としてその名を残した。英龍は海防の必要性を早くから説き、西洋砲術の導入や、品川の台場(お台場)建設の指揮、兵糧としての日本初のパン(兵糧パン)の試作など、多大な功績を挙げた。さらに、大砲を鋳造するための近代金属製錬施設である韮山反射炉の建設を主導した。この反射炉は日本で唯一現存する実用金属溶解炉であり、日本の近代産業化の歩みを伝える貴重な遺構として世界文化遺産に登録されている。