大友氏
【概説】
豊後国(現在の大分県)を本拠地とし、鎌倉時代から戦国時代にかけて北九州で強大な勢力を誇った守護大名・戦国大名。とくに第21代当主の大友宗麟の時代に最盛期を迎え、キリスト教を保護して南蛮貿易を積極的に展開したことで知られる。のちに島津氏との抗争による大敗や、豊臣政権下での失態が重なり、大名としての地位を失った。
鎌倉御家人から九州屈指の戦国大名へ
大友氏の起源は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の側近・中原親能の猶子である大友能直に遡る。建久4年(1193年)、能直が豊後国および筑後国の守護に任じられたことが九州における大友氏の第一歩であった。以後、大友氏は室町時代を通じて豊後守護職を世襲し、九州探題の渋川氏や大内氏と対立・協調を繰り返しながら徐々に勢力を拡大していった。
戦国時代に入ると、第20代当主・大友義鑑は周辺の国人領主の組織化を進め、肥後国や筑後国への影響力を強めた。しかし、家督相続を巡る内紛(二階崩れの変)で義鑑が暗殺されると、その長男である大友義鎮(のちの宗麟)が当主の座に就き、大友氏はかつてない飛躍の時代を迎えることとなる。
大友宗麟の覇業とキリスト教の保護
家督を継いだ大友宗麟は、卓越した政治力と軍事力で北九州を席巻した。長年の宿敵であった大内氏が毛利氏によって滅ぼされると、その空白地帯であった豊前国や筑前国へ進出。1559年には室町幕府から豊前・筑前の守護に任じられ、さらには九州探題の地位も獲得した。最盛期には豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の北九州6か国を支配下におさめ、九州における最大勢力として君臨したのである。
宗麟の政策で特筆すべきは、キリスト教の保護である。1551年、日本にキリスト教を伝えたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルを本拠地の豊後府内(現在の大分市)に招き、領内での布教を許可した。宗麟自身も後に洗礼を受け、「ドン・フランシスコ」という洗礼名を持つキリシタン大名となった。これにより豊後府内には教会や病院、孤児院などが建設され、日本におけるキリスト教文化の中心地として大いに繁栄した。
南蛮貿易の独占と経済力の強化
キリスト教の保護は、単なる信仰上の理由にとどまらず、ポルトガルとの南蛮貿易を独占するという極めて高度な戦略的意図を持っていた。宣教師の背後にあるポルトガル商人を引き入れることで、硝石や鉛などの火薬原料、そして最新鋭の武器である鉄砲を大量に獲得し、大友軍の軍事力を飛躍的に高めたのである。
また、貿易によってもたらされた莫大な利益は、広大な領国を統治するための経済的基盤となった。1582年には、九州の他のキリシタン大名である大村純忠・有馬晴信とともに、ローマ教皇のもとへ天正遣欧少年使節を派遣している。使節の中心人物の一人であった伊東マンショは宗麟の血縁にあたり、大友氏がいかに当時のグローバルなネットワークと深く結びついていたかを示している。
耳川の戦いと大友氏の没落
北九州に覇を唱えた大友氏であったが、南九州から北上してきた島津氏との激突により、その運命は暗転する。1578年、日向国(宮崎県)の支配権と「キリスト教国建設」の理想を掲げて大軍を南下させた宗麟は、耳川の戦いにおいて島津義久の軍勢に壊滅的な敗北を喫した。
この大敗により、大友氏は多くの有力武将を失っただけでなく、キリスト教への過度な傾倒に反発していた家臣団の離反を招き、領国内で大規模な反乱が勃発した。さらに、西の龍造寺氏や南の島津氏からの激しい侵攻を受け、大友氏は急速に衰退し、存亡の危機に立たされた。
窮地に陥った宗麟は大坂へ赴き、天下統一を進めていた豊臣秀吉に救援を要請した。これを受けた秀吉は1587年に九州平定を行い、島津氏を降伏させた。大友氏は滅亡を免れ、宗麟の嫡男・大友義統に豊後一国が安堵された。しかし、1593年の文禄の役において、義統が敵前逃亡という重大な軍律違反を犯したため、秀吉の怒りを買って改易された。これにより、約400年にわたって豊後を支配した名門・大友氏は、大名としての歴史に幕を下ろすこととなった。