豊後国

高校日本史的重要度
★★

豊後国 (ぶんごのくに)

【概説】
西海道(九州)に位置する令制国の一つで、現在の大分県の大部分(中津市・宇佐市などを除く地域)にあたる地。戦国時代から安土桃山時代にかけて、守護大名・戦国大名である大友氏が「府内」を拠点に支配し、南蛮貿易やキリスト教の受容によって独自の国際的繁栄を極めた。

戦国大名大友氏の領国支配と「府内」の繁栄

豊後国は、古代の「豊国(とよのくに)」が豊前と豊後に分割されて成立した。鎌倉時代に大友能直が豊後国守護に任じられて以来、同国は大友氏の一貫した本国として支配された。戦国時代に入り、21代当主である大友義鎮(宗麟)の時代に最盛期を迎える。宗麟は周辺諸国を従えて九州6ヶ国を支配する巨大な勢力を築き、守護所であった府内(現・大分市)は領国支配の中枢として、また国際色豊かな文化都市として急速な発展を遂げた。

キリシタン信仰と南蛮貿易の展開

豊後国、特に府内は、日本における西欧文化受容の最先端地であった。1551年に宗麟が宣教師フランシスコ・ザビエルを府内に招いたことを契機に、豊後国でのキリスト教布教が本格化した。宗麟は領内でのキリスト教布教を保護するとともに、ポルトガル船の来航を促して南蛮貿易を積極的に推進した。これにより、豊後には西洋の先進的な医学や科学技術、芸術がもたらされ、日本初の西洋式病院(アルメイダ病院)や、コレジオ(宣教師養成学校)などが建設された。宗麟自身も後に洗礼を受け、キリシタン大名となっている。

戦国末期の動乱と大友氏の改易

大友氏は九州制覇を目指して南下を試みたが、1578年に薩摩の島津氏との間で起きた耳川の戦いで大敗を喫し、一転して衰退期に入る。その後、島津氏による豊後侵攻を受けて窮地に陥った宗麟は、豊臣秀吉に臣従して救済を求めた。これにより秀吉による九州平定が実現し、大友氏は豊後一国の安堵を得たが、宗麟の跡を継いだ大友義統は文禄の役(朝鮮出兵)における敵前逃亡の嫌疑をかけられ、1593年に秀吉によって改易された。大友氏の没落後、豊後国は豊臣蔵入地や複数の小大名による分割支配地となり、江戸時代の「豊後八藩」と呼ばれる細分化された統治体制へと移行していくこととなった。

最終更新:
2026年7月4日 @ 16:12

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