六角氏式目 (ろっかくししきもく)
1567年
【概説】
戦国時代の1567年(永禄10年)、南近江の戦国大名である六角氏が制定した分国法。大名が家臣に対して一方的に発布したものではなく、大名と家臣団が互いに遵守することを誓い合う「起請文」の形式をとる、極めて特異な成立過程を持つ法典である。
「観音寺騒動」と式目制定の背景
六角氏式目が制定された背景には、六角氏の家中を揺るがした御家騒動がある。1563年(永禄6年)、当主の六角義治が有力重臣であった後藤賢豊父子を暗殺する観音寺騒動が発生した。この凶行に対して他の家臣団は猛反発し、一時は六角父子を居城である観音寺城から追放する事態へと発展した。この大名権力の失墜と主従関係の崩壊という危機を収拾し、領国の秩序を再構築するために、大名側が妥協する形で制定されたのが本式目である。
相互誓約の形態にみる大名権力の限界
六角氏式目の最大の特徴は、大名と家臣団の「双方向の合意」によって成立している点にある。本式目は大名が守るべき条文と家臣が守るべき条文から構成され、末尾には互いに神仏にかけて違背しないことを誓う起請文が添付された。これは、織田氏や武田氏のような強大な専制権力を築いた戦国大名とは異なり、六角氏が有力な国人領主(合議制を担う「天下非番」の重臣ら)との連合政権的な性格を強く有していたことを示している。大名の専制を抑制し、家臣の権利を保障したこの式目は、戦国期における大名権力の限界と、室町期の守護領国制から戦国大名領国制への過渡期的な特質を如実に物語る史料として、日本法制史上、極めて高い価値を持っている。