坂本 (さかもと)
【概説】
近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市坂本)に位置し、比叡山延暦寺および日吉大社の門前町として栄えた中世・近世の都市。琵琶湖水運と陸上交通を結ぶ要衝であり、馬借や土倉が集まる経済・流通の拠点となった。中世には土一揆(徳政一揆)の基盤となり、安土桃山時代には明智光秀による坂本城築城を経て、織田政権の重要な政治・軍事拠点へと変貌を遂げた。
比叡山の門前町と交通・流通の要衝
坂本は、比叡山の東麓、琵琶湖の西岸に位置する。古くから比叡山延暦寺および山麓の日吉大社(日吉社)の門前町として発達した。延暦寺という巨大な宗教勢力の経済活動を支えるため、多くの商工業者がこの地に居住した。また、北陸地方からの物資を琵琶湖水運(坂本港)を介して陸揚げし、京都へと運ぶ陸上交通の結節点でもあった。この利便性から、物資の輸送を担う運送業者である馬借(ばしゃく)や、延暦寺の豊富な資金力を背景に金融業を営む土倉(どそう)などが集まり、独自の特権を持つ自治的な都市社会が形成された。
馬借の台頭と「正長の徳政一揆」の拠点
坂本に割拠した馬借は、単なる運送業者にとどまらず、強力な組織力と武装を擁する集団であった。室町時代中期、貨幣経済の浸透にともなって借金に苦しむ農民(惣村)が増加すると、馬借は彼らと深く結びつき、一揆の強力な推進力となった。1428年(正長元年)に発生した正長の徳政一揆では、近江国坂本や大津の馬借が蜂起したことが導火線となり、一揆勢が京都へ乱入して土倉や酒屋、寺院を襲撃し、借用書の破棄を迫った。このように坂本は、中世の幕府権力や高利貸し(借上・土倉)に対抗する民衆運動の、西国における一大拠点としての役割を果たしたのである。
信長の比叡山焼き討ちと光秀による坂本城築城
戦国時代末期の1571年(元亀2年)、織田信長は敵対する浅井氏・朝倉氏を庇護した比叡山を包囲し、比叡山焼き討ちを断行した。この際、門前町であった坂本も灰燼に帰し、多くの町民や僧侶が犠牲となった。信長は焼き討ち後、近江国滋賀郡を重臣の明智光秀に与え、支配の拠点とさせた。光秀は琵琶湖の湖水を取り込んだ水城である坂本城を築き、坂本を「寺社の門前町」から「織田権力の軍事・政治拠点(城下町)」へとドラスティックに造り替えた。光秀の善政によって坂本は復興を遂げたが、1582年(天正10年)の本能寺の変後の混乱で坂本城は焼失した。後に浅野長政が近くの大津城へ拠点を移したことで坂本城は廃城となり、都市としての主役の座を大津へと譲ることになったが、現在も延暦寺の里坊(高齢の僧侶が隠居する坊舎)が並ぶ静かな歴史の町としてその面影を残している。