桑名
【概説】
伊勢国北部(現在の三重県桑名市)に位置する、中世から近世にかけて繁栄した港町。木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の河口という交通の要衝にあり、戦国時代には「十楽の津」と呼ばれる自由な取引が認められた自治都市として栄えた。
「十楽の津」としての繁栄と中世の自治
桑名は、東国と西国を結ぶ伊勢湾の水上交通の結節点であり、背後に木曽三川の大水系を控える物流の超一級の拠点であった。戦国時代、この地理的優位性を背景に、桑名は「十楽の津(じゅうらくのつ)」と呼ばれる自由都市として急速に発展した。十楽とは、特定の商人の特権(座)を排除し、自由な取引や諸税の免除、居住や移動の自由を保障することを意味する。桑名は、室町幕府や伊勢の国人領主の介入を排し、有力商人たちによる合議制的な自治運営が行われていた。これは同時代の和泉国の堺や筑前国の博多、近江国の大津などと同様に、中世後期に日本各地で見られた先駆的な自治都市(自由都市)の代表例であった。
織田信長の北伊勢支配と自治の終焉
元亀・天正年間(16世紀後半)、天下統一を推し進める織田信長にとって、伊勢湾の水上権の掌握と伊勢国の平定は最重要課題であった。信長は北伊勢の国人領主たちを武力で圧倒していく過程で、強大な富と物資の集積地である桑名の重要性に着目した。信長による強力な支配の手が伸びると、桑名はそれまでの自律的な特権を失い、織田権力の直轄地として組み込まれることとなった。こうして「十楽の津」としての自立的な都市運営は終焉を迎え、統一権力に臣従する流通都市へと変貌を遂げていった。
近世城下町への再編と「七里の渡し」
織豊期を経て江戸時代に入ると、桑名は近世的な城下町・宿場町として劇的な変容を遂げる。慶長6年(1601年)、徳川四天王の一人である本多忠勝が初代桑名藩主として入封すると、大規模な桑名城の築城と城下町の整備が行われた。さらに幕府によって東海道が整備されると、桑名は尾張国宮宿(現在の愛知県名古屋市熱田区)との間を海上七里の船路で結ぶ「七里の渡し」の西側の起点(東海道四十二番目の宿場町)に指定された。これにより、伊勢参りへ向かう旅人や、東西を行き交う多様な物資の集散地として、近世を通じて伊勢国随一の活気あふれる港町として栄え続けた。