大湊 (おおみなと)
【概説】
伊勢国宮川河口に位置する、中世から安土桃山時代にかけて繁栄した伊勢湾最大の港町。伊勢神宮参詣の玄関口および海上交通の要衝として栄え、有力商人による合議制のもとで高度な自治都市を形成した。
伊勢参詣の活発化と海上交通の要衝
中世後期から戦国時代にかけて、伊勢神宮への信仰が全国的に高まり、庶民による参詣が活発化していった。大湊は宮川の河口、伊勢湾の最奥部に位置し、外宮に近接していたため、東国や北陸などからの伊勢参詣者を受け入れる「門前港」として急速に発展した。同時に、畿内と東国を結ぶ太平洋海運、および伊勢湾内における物資流通の結節点でもあり、塩や米、木材、伊勢瀬戸物(陶磁器)などの集散地として多大な富が蓄積されることとなった。
「会合(会合衆)」による自治と都市の自立
大湊の最大の特徴は、特定の守護や戦国大名の支配に甘んじることなく、有力な商人らによる合議制に基づく自治都市を形成した点にある。この合議機関は「会合(えごう)」と呼ばれ、その指導者層は会合衆(大湊では「十人衆」などと呼ばれる)と称された。彼らは独自の都市法を運用し、警察権や裁判権を保持して都市の治安と安全を維持した。これは同時代の和泉国の堺や筑前国の博多などと共通する、中世日本の自律的な特権都市(自治都市)の典型例であり、伊勢神宮の権威を背景に周囲の武力勢力と渡り合った。
織田信長の進出と自治の終焉
戦国時代後期、天下統一を目指す織田信長が伊勢国への侵攻を本格化させると、大湊の自立性は大きな危機に直面した。1569年(永禄12年)、信長は伊勢南部の北畠氏を攻略する過程で、大湊に対して巨額の矢銭(軍資金)を要求した。大湊側は当初、これに抵抗する姿勢を見せたものの、強大な軍事力を前に屈服を余儀なくされ、信長に従属することとなった。その後、信長は大湊の優れた造船技術と水運力に着目し、九鬼嘉隆が率いる九鬼水軍の軍事活動を支える兵站・造船基地として大湊を統制下に置いた。続く豊臣秀吉の時代、そして徳川家康による江戸幕府の確立へと進む過程で、大湊は完全に近世大名領や幕府領(山田奉行支配)に組み込まれ、かつての高度な自治権を喪失していった。